前回記事「神の存在について(3)宇宙論的論証―前編」では、神の存在論証の1つである「宇宙論的論証」の内容についてご紹介しました。
今回はこの宇宙論的論証に対する反論や問題点を取り上げてみたいと思います。
宇宙論的論証の内容 ~復習~
前回の復習になりますが、宇宙論的論証とは次のような議論です。
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この宇宙のすべてのものは原因があって存在している。
宇宙全体もまた原因があって存在していると考えられる。
その原因こそが「神」である。
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つまり宇宙が存在する究極の原因(第一原因)として「神」を挙げる議論です。
そしてこの議論には1つポイントがありました。
そのポイントとは「宇宙が存在する究極的な第一原因については科学の探究の手は届かない」ということです。
宇宙論的論証ではその「科学を超えた第一原因」を「神」と呼ぶわけです。
神にだって原因がある?
宇宙論的論証は昔からある議論で人気もあります。
しかしやはり無神論陣営も黙ってはいません。これに対する反論もいくつか提出されていますので少しだけ検討してみます。
ポピュラーな反論としてはまず次のようなものがあります。
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ほう、「宇宙の究極の原因」が神だと言うのか。
よろしい。そういうものがあるのかもしれない。
ではその神が存在する原因は何だ?
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かなり皮肉のこもった反論です。
第一原因が神だと言うが、それならさらに「神の原因」だって問えるはずだというわけですね。
彼らの言い方には「盲点をついて論破してやった! ザマーミロ!」という雰囲気が感じられてムカつきます(笑)
大物の哲学者や思想家もこの反論方法を支持しています。
例えばイギリスのバートランド・ラッセル(1872-1970)という有名な哲学者もそうです。
彼は子どもの頃には宇宙論的論証を信じていたのに、18歳の時に「神の原因」という議論を知ってその間違いに気づいたと述べています。
戦闘的な無神論者であり『利己的な遺伝子』『神は幻想である』などの著書で知られる進化論者リチャード・ドーキンスも同じ論法で宇宙論的論証を否定しています。
彼ら曰く「神の原因だって問える以上、宇宙論的論証など無意味だ」ということですね。
しかしこの反論はやはり「議論の順番を間違えている」と僕は考えています。
宇宙論的論証というのはそもそも「第一原因(それ以上には遡及できない原因)があるのか」を問題として「それがある」と回答する議論なわけです。
それなのにそこで想定された第一原因に対して「さらにその原因」へと遡るという論法はおかしいでしょう。
もし神を生んだ原因へとさらに遡れたとしたら、その神は宇宙論的論証で想定されている神ではなかったというだけのことです。
宇宙論的論証の中身を批判して「第一原因はない」「第一原因には到達できない」と言うなら分かりますが、第一原因を認めておきながらそれをさらに遡るというのは違反です。
というわけで、この反論は一見もっともらしいですし宇宙論的論証の隙を鮮やかに突いているようにも見えますが、やはり間違っていると言うべきでしょう。
無限遡及の可能性
これよりもう少しまともな反論としては、今しがた述べた「第一原因には実は到達できないのではないか」というものがあります。
宇宙論的論証では「それ以上に遡れない第一原因が想定できる」と言います。原因から原因へと次々に遡っていくと「その原因の系列はどこかで終わる」と考えているわけです。
しかしこれに対して「どうして原因の系列を無限に辿ってはいけないのか?」「どうして『どこかに終着点がある』と考える必要があるのか?」という反論があるのです。
前回、宇宙論的論証にも2つのタイプがあるとご説明しました。
1つは「時間を遡って原因の連鎖を辿り、その果て(時間の開始点)にあるものを第一原因と見なす」というタイプの宇宙論的論証(宇宙論的論証・旧版)。
もう1つは「時間・空間・物理法則すら含めた宇宙の存在根拠(究極原因)を第一原因と見なす」というタイプの宇宙論的論証(宇宙論的論証・新版)。
このどちらであっても「原因と結果の法則」(因果法則)というものは貫いています。
宇宙論的論証の支持者は「この因果の系列がどこかでストップする」と考えるのに対して、反論者は「必ずしも因果系列がどこかで止まると考える必要はない」と主張するわけです。
様々な分野で業績を遺した19世紀の天才思想家ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)も因果系列の無限遡及の可能性に触れて宇宙論的論証の意義を否定しました。
彼は「この世界には始まりはなく、始まりがないものに原因を想定する必要はない」と述べて第一原因という発想を批判したのです。
ちなみにミルは神の存在そのものを否定しているわけではありません。宇宙論的論証のやり方を批判しているだけです。
この無限遡及の考え方については下で参考文献として挙げた『「神」という謎』という宗教哲学のテキストで1つの反論が示されていますので(僕なりに整理して)ご紹介します。
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A君が宗教学の教科書を友達のB君から借りようと思ったとする。
B君はそれをC君から借りてあげようと考える。C君はD君に借りようとする。そしてこの連鎖がどんどん続いていくとする。
こういう場合、2つのことが言える。
1つ目は「もしこの連鎖が無限に続くなら、A君は永遠に宗教学の教科書を借りることはできない」ということである。
2つ目に言えるのは「もしA君がB君から教科書を借りることができたのだとすれば、その連鎖はどこかで止まっており、自分で教科書を手に入れた人が存在する」ということだ。
これと同様に「因果系列が無限に進むならばこの宇宙は存在していない」「この宇宙が存在しているのならば因果系列はどこかで止まっている」という2つのことが言える。
そして明らかに宇宙は存在しているのだから、宇宙の存在原因として「それ以上遡及することが不可能な究極の第一原因」があると言える。
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これは時間を遡るタイプの議論になっていますが、因果の連鎖を非時間的なものと考える議論にも応用できるでしょう。
現在において宇宙が存在しているならば、そのこと自体が「第一原因があること」を示唆しているということですね。これは宇宙論的論証の旧版でも新版でも通用するものだと思います。
僕としては今のところ、これは「無限遡及の可能性」に対する立派な反論になっているのではないかと考えています。
やはりこの宇宙が存在している以上、それを存在せしめるに至った最初の(もしくは究極の)原因というものを想定しないのは不条理であるということですね。
人間は「宇宙の原因」を思考できない?
さて最後に少し哲学的な趣きのある意見を取り上げます。
ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)が示した宇宙論的論証への反論です。
カントは「人間の認識能力には限界がある」と主張しました。
人間はつい「世界の果て」「時間の始まり」「第一原因」等々について考えてしまうが、それらは人間の認識能力を超えていて正しい結論を出すことはできないというのです。
したがってカントによれば「第一原因」を云々する宇宙論的論証はそもそもナンセンスであるということになります。
この辺りのカントの考え方については下記の記事をご参照下さい。
詳しくは上の記事に譲りますが、要するにカントは「人間は自らが知覚できないような対象について正しく思考することはできない」と言ったのです。
そして人間は「世界の果て」「時間の始まり」「第一原因」を見たり聞いたりすることはできませんから、そういったテーマについて議論しても仕方ないというのですね。
しかし僕はこれとは違った意見を持っています。
例えば現代の科学は「ビッグバン」「素粒子」「ダークエネルギー」など人間の知覚できない対象を立派に扱っています。それを無意味だと言う人はいません。
直接に目で見たりできなくても、様々な実験・観察データがその代わりになって、十分に人間の科学的考察を導くものとなっているのです。
ですので「人間が正しく認識できる範囲」を「人間が知覚できる範囲」に絞ろうとするカント哲学はさすがに古色蒼然たるもので時代遅れと言わざるを得ません。
もちろんその時代の学問の水準では解明できないこともあるでしょう。
もしかしたらカントの言う通り、いくら科学が発展しようとも人間には解明不可能な事柄もあるかもしれません。そういう意味では人間は謙虚になる必要があります。
しかし「ここから先は無理」などと勝手に限界を決めて真実の探究を止める理由はありません。それぞれの時代において可能なところまでは探究してよいはずです。
科学はブレイクスルーの連続で、限界を突破してはじめて「そこが限界ではなかった」と分かるものなのです。
宇宙論的論証は科学とは違ってどちらかと言えば哲学に属するものですが、研究をごく狭い範囲に限定されるべき理由がないのは同じです。
最初から「第一原因」への思考を遮断して宇宙論的論証を批判するカントの認識論の方こそナンセンスだと言うべきでしょう。
なおカントは宇宙論的論証など既存の議論を批判しているだけで神の存在を否定しているわけではありません。この点はミルと同じです。
宇宙論的論証の本当の弱点
ここまで宇宙論的論証に対する反論の主なものを挙げてきましたが、それらに対しては再反論も可能です。
しかし宇宙論的論証の本当の弱点は別のところにあります。
宇宙論的論証は「この世界の根底に科学を超えた第一原因がある」ということを示していますが、逆に言えばそのことしか示せていないのです。
これは多くの信仰者にとっては大いに不満足な内容でしょう。
分かるのは「第一原因がある」ということだけで、「それはどんなものか」については白紙のままなのです。
宇宙論的論証で示された宇宙の第一原因が(例えば)クリスチャンやムスリムがイメージするような人格神であるという保証は何もありません。
もしかすると自分たちの考える神は「第十原因」くらいかもしれないわけです(汗)
自らの信仰する神こそが宇宙の第一原因(宇宙を創造した神)であると言うためには、宇宙論的論証とはまったく別の議論が必要になります。
そしてその議論は恐らく、万人が共有できる理性的な議論(宗教が異なる者同士でも共有できる議論)にはならないと思われます。
このことは宇宙論的論証を行った13世紀の神学者トマス・アクィナスも指摘しています。
彼は「理性的な考察をすれば『神が存在する』ということは分かる。しかしそれを超えて『神はどんな存在なのか』を探究するならば聖書(神からの啓示)に頼るしかない」と言ったのです。
トマス・アクィナスは万人共通の理性を用いた神の探究を「自然神学」、聖書を用いた信仰に基づく神の探究を「啓示神学」と呼んで2つを区別しています。
このように宇宙論的論証は「宇宙の第一原因」について触れるのみで、宗教者にとっては「入口の入り口」くらいの議論にしかならないでしょう。
しかし無神論や唯物論を向こうに回して「科学を超えた宇宙の第一原因」を擁護できるだけでも哲学としては十分ではないでしょうか。
哲学や科学においても第一原因の存在が支持されていると思えば、宗教者たちも安心して自らの信仰を深めることができるでしょう。
さて次回「神について(5)目的論的論証と進化論」では、極めて精巧な自然を前にしてそこに神という設計者がいることを推論する「目的論的論証」をご紹介します。
〈参考文献〉
- 『「神」という謎[第二版]』(上枝美典著、2007、世界思想社)
- 『科学と宗教』(A・E・マクグラス著、稲垣久和他訳、2009、教文館)