前回記事「霊が存在する理由(3)幽霊を科学的に調査する」では、19世紀から20世紀にかけて科学的な心霊現象研究が起こったことをご紹介しました。
今回もこの時期の心霊研究に関連して、僕が大事だと思うことを論じてみたいと思います。
研究者たちが「霊」となって再登場
この研究を主導した心霊現象研究協会(SPR)メンバーの活躍、それからパイパー夫人など霊能力者の驚異については、まだまだ語り足りないものがあります。
特に興味深いのは、次のようなことが起きたことです。
世紀をまたぐ頃になると、シジウィック、マイヤーズ、ホジソンといった初期SPRの中心メンバーたちが次々と亡くなっていきます。
ところが間もなく、なんと彼ら自身が「霊」として交霊会に登場するようになったのです。霊媒となったのはパイパー夫人ほか数名です。
残されたウィリアム・ジェイムズらは、この霊たちが本当にかつての仲間たちなのかどうか、慎重に検討するハメになります(笑)
その過程ではいろいろと興味深い実験もなされています。
亡くなったシジウィックやマイヤーズは古典語(ギリシャ語・ラテン語)ができた人たちですが、パイパー夫人など地上の霊媒たちはできません。
そこで「こうした教養ある霊たちと古典語で意思疎通ができるか」を試すとか(笑)
結果は「微妙」と言うか、どちらとも解釈できる曖昧なものだったようですけどね(^^;)。
しかしかなり驚くべきことも起きています。
例えば、交霊会で霊が示したアナグラム(言葉遊び)とほとんど同じものがホジソンの遺品の中に見つかるなどということもありました。
したがって僕としては「研究者たちが霊の存在証明のために、今度は自分たちが霊として研究に参加した」と考えてもいいと思っています。
シジウィックの妻で数学者のエレナは、霊の存在についてずっと慎重な姿勢を崩さなかった人ですが(夫を含めた)かつての仲間たちの霊と交流して、ようやく信じる気持ちになったようです。
しかしこれは「あまりにもドラマチックすぎる」と言うか「話が出来すぎている」と感じる方も多いかもしれません。
それに「確実な証明」とまで言えるかどうかは僕も分からないので、興味津々ではありますが、この辺の話はとりあえず置いておきましょう。
確率論的に「偶然」で説明できる?
これは哲学ブログですので、初期の心霊研究で出てきたもののうち、「霊の存在証明」というテーマにとって重要なもう1つの論点を示しておこうと思います。
これまでの記事で述べてきた通り、霊の存在証明においては以下のような事例が重要になります。
AさんがBさんの霊を目撃した。そのことによってAさんはBさんの死を知った。Aさんはその時刻においてはそのことを他の通常の手段(新聞・手紙・電報)では知り得なかった。
こういう場合、Aさん本人がそう主張する通り、「超常的な方法(霊による通信)によって情報が伝達された」と考えるのが合理的であるということになるでしょう。
ところが、霊を否定する人たちはこれに対する有力な反論方法を持っているのです。その議論は例えば次のようなものです。
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まずBさんがその日に亡くなる確率を考える。
そして同じ日にAさんがBさんの幻覚を見る確率を考える。
それらを掛け合わせれば(かなり低い値になるが)ゼロではない。
例えば日本には1億人以上の人がいる。
この「Bさんが亡くなる当日にAさんがBさんの幻像を見る」という事態だが(低確率を考慮しても)日本で1日に何十件かは偶然で起きている計算になるのだ。
したがってこれは「霊が存在して自分の死を知人に伝えた」のではない。偶然が重なって起きたことに過ぎない。
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これだけ聞くと、何だかもっともらしくて「謎は解けた!」という感覚になってしまうかもしれません。僕も以前は「う~ん、かなり強力な反論だなあ……」と思っていました。
このタイプの「偶然論」は根強くて、今でも心霊現象を否定する議論としてよく使われています。そのたぐいの否定本などを見ると散見されますね。
偶然論は「ディテールの無視」によって成り立つ
しかし、この議論はやはり間違っています。
実はこうした偶然論は「個々の事例のディテール」を完全に無視して成り立っているのです。
多くの事例では、Aさんは(Bさんが死亡したという単なる事実だけではなく)Bさんが死亡した際の状況を詳しく描写しています。
その描写が正しくて、しかも普通の推理力を超えたものであれば、やはり何らかの超常的な情報伝達が起きたと考えるのが合理的です。
少し抽象的なので具体例を挙げると「ある女性が遠隔地にいる弟の死を霊出現によって知った」という事例があります。
その女性は弟が亡くなった当日に弟の幻影を見たのですが、それだけではありません。
弟が船のロープに足を取られて海に転落して溺死したこと、死亡したときの弟の服装、その船の形状など、死の状況や周囲の様子まで語っているのです。
彼女はその場面のビジョンをありありと見たわけです。
否定論者はこれを「女性が弟の幻を見た」「その日に弟は死んだ」という、非常に縮減された情報に直した上で確率計算しているに過ぎません。
確率論に基づく懐疑論は100年前からすでにあったようです。
フランスの哲学者でSPR会長も務めたベルクソンは、ディテールを無視したこのような議論を「具体的なるものに対する軽蔑」と呼んで批判しました。
ベルクソンは、ある著名な学者(医者)が確率論を使って「遠い戦場で闘っていた夫が戦死する様子をその妻がありありと描写した」という話を否定する場面に出くわしたそうです。
そこでベルクソンは次のようにその医者を批判しています。
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彼(確率論を持ち出すその医者―只木注)は、具体的でありありとした光景の叙述、特定の時に特定の場所で特定の兵士に囲まれてその士官が倒れたという光景の叙述を、「その婦人のまぼろしは真実であって偽りではなかった」という干からびた抽象的な言い方によって置き換えたのです。
そうした抽象化はそこに見いだされる本質的なもの、すなわちそのご婦人の知覚した光景を無視するところに成り立っています。その光景は、そのご婦人から遠く離れたとても複雑な場面を、ありのままに再生していたのです。
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この医者が話をした後、話を聞いていた若い娘さんがベルクソンのもとへやって来て「あのお医者さんは間違っている。どこが間違っているかは分からないけれど」と言ったそうです(笑)
ベルクソンは「その若い娘さんが正しくて、あの大学者が間違っていた」と述べています。
一般的には学識者は尊敬すべきでしょうが、残念ながら、なまじ学問をやったために真実が分からなくなる「学問バカ」ということもあると言わざるを得ません。。
心霊現象などは学問バカが多い典型的な分野だと思います。
ベルクソンがすでにこのような論理的・合理的な反論をしてくれていたことはありがたいと思っています。
先ほども言いましたが、現代でもこういう「確率論・偶然論に基づく心霊現象批判」というのは大手を振って歩いています。100年前に論破されているのに……。
僕が持っている本をザっと見るだけでも、けっこうあるんですよ。
しかしいかに多くてもやはり間違いは間違いです。
否定論者がもしあくまで確率的・統計的に処理したいなら……
幻視者が見た具体的な光景について(どうやるのかは知りませんが)細かい点に至るまで詳細に描写できる確率とそれが現実に起こる確率を計算して2つを掛け合わせなければなりません。
そうすれば否定論者が期待するような中途半端な低確率ではなく、それこそ絶対に起こり得ないような天文学的な低確率が弾き出されるに違いありません。
数字を用いた(一見)科学的な議論をされると、怯んでしまって「そうなのかな」と思ってしまいがちですが、そんなときはここでご紹介したベルクソンの議論を想い出して下さい。
僕たちが耳にする霊の報告の中には「偶然だ」では片付けられないものが数多く存在するのです。
ここまで臨死体験および霊出現の研究を見ながら、「なぜ霊が存在すると言えるのか」という根拠を述べてきました。
次回「霊が存在する理由(5)大いなる慰め」では、これまでの内容も踏まえながら、改めて論点を整理してみたいと思います。
〈参考文献〉
- 『精神のエネルギー』(アンリ・ベルクソン著、原章二訳、2012、平凡社ライブラリー)