西田幾多郎(5)西田の政治思想・国家論など

哲学者ごとの解説

 

前回記事「西田幾多郎(4)西田の倫理学~善とは何か~」では、西田幾多郎の倫理学・道徳哲学について述べました。

西田幾多郎(4)西田の倫理学~善とは何か~
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今回は西田の政治思想や国家論についてご紹介します。

 

全体と部分

 

まず、これまでの解説ではあまり出てこなかった論点を説明します。

それは「全体と部分」という論点です。

 

西田の哲学を学んでいると、「矛盾したものが1つになる」あるいは「矛盾したものが実は1つである」という考え方があちこちに出てきます。

例えば「主観と客観が統一される」「理想と現実が統一される」「人間と神とは別でありながら実は一体である」等々です。

こういう事態を西田は「絶対矛盾的自己同一」と表現します。そしてここで述べる「全体と部分」もまた絶対矛盾的自己同一の1つだと言えるでしょう。

 

分かりやすく生物の例を挙げてみます。

1匹の猫の身体は多くの細胞から成り立っていますね。この場合、猫の身体が「全体」、多くの細胞が「部分」です。

ここでのポイントは「猫(全体)と細胞(部分)は運命共同体であり一体である」ということです。

もし猫が死んでしまえば細胞も全滅します。逆に多くの細胞が死滅してゆけば猫もやがて死んでいくでしょう。「一方のために他方を犠牲にする」というのは本来ナンセンスです。

全体を守るために(ごく小規模なレベルで)部分を犠牲にすることはあり得ますが、それが一定のラインを超えてしまえば守ろうとしたはずの全体もやはり滅びるでしょう。

 

このように全体と部分は明確に区別されるものでありながら、それと同時に緊密に結合された統一体でもあります。これも「絶対矛盾的自己同一」の1つの類型です。

 

国家と個人との関係

 

国家と個人の関係も、基本的には生物の例と似ています。

例えば日本という国が「全体」だとすると、国民1人ひとりは「部分」ということになります。国家と国民1人ひとりは互いに支え合う関係にありますね。

ただし国家は(猫と違って)物体ではないため、この場合は「全体と部分」よりも「普遍と個物」という表現の方が適切でしょう。

それでは、個人と国家はどのような関係であることが望ましいのでしょうか?

大筋では「個人も国家も一緒に繁栄する」というのが基本ラインとなります。生物の例と同じですが「一方のために他方を犠牲にする」というのは邪道なのです。

 

もう少し具体的に言いましょう。

国家はまず個人を尊重しなければなりません。基本的人権を保障し、各人が自由な活動によって繁栄してゆける環境を整備しなければなりません。

そうではなく「個人は国家のためにある! お前らの代わりなどいくらでもいるが国は1つだ。国家のために忠誠を尽くせ」と言ってくるような国家は「全体主義」に陥っています。

逆説的ですが、国民に対して無制限の忠誠を要求するような全体主義国家には、そのような要求をする資格はありません。忠誠を受けるに値する価値もありません。

国民の自由や権利を大事にする国家だからこそ、国民もまた国家に奉仕するのです。

 

しかしながら、大事にされすぎた国民がつけあがって堕落し、悪い意味での個人主義(=ワガママ)になってしまっても困ります。

国民の多くが公共心を失い、「公」に奉仕する精神を失い、義務や責任を放棄するようになったら、その国は衰退していくでしょう。

そして国が衰亡してしまえば、その報いを受けるのは他ならぬ国民自身です。国力が落ちてゆけば経済的苦境が来ますし、安全保障上の危機が訪れる可能性もあります。

 

まとめると「国家は国民を尊重して大切に扱う。そしてそんな国家だからこそ、国民もまた国家を尊重して奉仕する」という感じでしょうか。

西田は難しい表現しか使いませんが、要するにこういうことを言っているのです。

 

さらにスケールを大きくして「国家と世界の関係」を考えてもまったく同じです。

世界(国際社会・国際機関)は各国家を尊重しなければなりません。(その必要もないのに)特定の国に意地悪をしたり、アンフェアな負担を課したりすることは避けるべきです。

そしてもし国際社会からそのような不当な扱いを受けていないのなら、各国家の方にも積極的に世界に貢献してゆく姿勢が求められます。

各国家はすでに固有の文化や国民性を持っています。それが自国民や世界の人々にとって抑圧的なものでないなら、その貴重な個性を発展させていけばいいでしょう。

世界は個性のある国や文化がたくさん花開く場であるべきなのです。西田の世界観は「多元主義」の一種だと表現しても間違っていないと思います。

 

西田は国粋主義者なのか?

 

西田はこのようなことを述べたわけですが、非常に「バランスがいい」と言うか、適正な政治思想であるように思えます。

ところが……。

西田の政治思想は一部の人たちからは評判が良くないのです。「西田は国家主義者・国粋主義者だから」というのがその理由です。

 

西田が国粋主義者? 批判者たちはどうしてそう考えるのでしょうか?

それは、西田が「近代日本には世界的に重要な使命がある」と考え、日本が「東アジアの盟主」として各国を積極的に指導していくべきだと主張したからです。

そして西田の弟子筋に当たる「京都学派」と呼ばれる人たちも「日本の使命」について論じ積極的に提言しています。

主に日本の「リベラル」「左派」と呼ばれる人たちは、かつての日本の戦争や軍事進攻を「侵略」だったと考えています。

だから「大東亜共栄圏」やら「盟主」やらを強調する西田本人や京都学派の主張は、日本の帝国主義的侵略を正当化するものとしか思えないわけです。

 

しかし、西田の国家論はすでに述べたような多元主義的なものですので、「西田が国粋主義者だ」という批判はやはり当たっていません。

実際、西田は帝国主義や侵略主義を繰り返し批判しています。当時の右派が説いていた狭隘な「日本主義」についても懸念を表明しています。

西田はただ「責任のある大国として東アジアを指導すべきだ」と言っているだけです。これは決して国粋主義とか侵略主義などと言えるものではないでしょう。

 

大国が地域に責任を負うのは当然

 

ところがこの「大国として他国を指導する」というところに過敏に反応する人たちがいるわけです。これは侵略や介入のための口実に過ぎないというわけです。

彼らは「帝国主義の小奇麗な口実である!」とか「他国がどう思うのか、そういう視点が一切ない!」などと言って批判しているようです。

しかし、これはやはり現実の「国際政治」というものをよく分かっていないために出てくる批判ではないかと僕は考えています。

 

自分の国が軍事的・経済的・文化的に大きく発展して「大国」となったならば、望もうが望むまいが、やはり地域や世界に対する責任は生じます。

例えば独裁国家Aが平和国家Bを侵略したとします。その際、近隣の大国が「いや~不干渉が原則ですし~」「話し合って解決して下さいよ」と言ってそれで済むのでしょうか?

やはり軍事オプションをチラつかせてA国を威嚇ぐらいするべきです。場合によっては実際に武力行使してA国軍を排除する必要もあるでしょう。見て見ぬふりは許されません。

また知的財産の侵害や為替操作によって不当に儲けすぎているC国があるなら、大国としては経済制裁を科すなりして圧力をかけ、不正を止めさせなければなりません。

 

もちろん大国自身のモラルも厳しく問われる必要はあるでしょう。影響力のある大国の行動基準がおかしなものだったら困ります。

しかし「大国だっておかしな行動をすることがあるから」という理由で、大国が地域や世界に影響力を発揮することを否定してしまえば、それこそ世界の秩序は保てません。

これは好き嫌いではなく、政治力学からして必然的にそうなるのです。そのことを認めた上で、大国の掲げる「正義」すらも判定できる人類の智慧を磨いていくしかありません。

 

そして近代アジアでそのような「大国」を探すとすれば、日本以外にはありませんでした。他の国は近代化に失敗して、ほとんどが欧米の植民地や保護国になっていたのですから。

左派の人たちはなぜか母国である日本を性悪説的にとらえ「もともと侵略的傾向の強い国だ」と考えているようです。だから日本が影響力を強めるのを嫌がるわけです。

僕はそういう歴史認識には立たないので、西田が「日本が東アジアの盟主として指導力を発揮すべきだ」と論じても「ごく当たり前のこと」のように聞こえてしまいます。

 

さてそういうわけなので、「西田は国粋主義だ」「結果的に侵略を容認している」というタイプの批判はまったくの的外れだと僕は考えています。

西田の哲学はむしろ帝国主義や侵略を批判する多元主義的なものなのです(京都学派については僕もまだ勉強不足なので軽々しく結論を出すのは避けたいと思います)。

 

今回で西田の解説は終わりですが、西田はこれからも研究していくに値する大事な哲学を後世に遺してくれたと僕は尊敬しています。

文章が無駄に難解すぎるのが「たまにきず」ですが(^^;)

そして西田は「大国・日本」の思想家として当然の「気概」「責任感」を持っていました。

現代日本の知識人たちに決定的に欠けているのは、内容というよりむしろこちらの「世界に対する責任感」かもしれません。

僕も含めて日本人としては自戒する必要があると思います。