前回記事「西田幾多郎(3)西田の宗教哲学」では、西田幾多郎の「神」および「宗教」についての考え方を見ました。
今回は、西田の倫理学・道徳哲学について述べてみます。
善とは理想を実現すること
これまでの記事で「純粋経験」について述べてきましたが、それは初期の『善の研究』という本で強調されている考え方です。
つまりこの本はもともと「善」「道徳」がメインテーマなんですね。
それでは、これまで論じてきた「純粋経験」と「善」はどんな関係にあるのでしょうか? そのことについてまとめてみたいと思います。
純粋経験の中には森羅万象が含まれています。
まずは物理的対象(物体・物質)や様々な物理現象。これらが「客観」ですね。
それから知覚・思考・感情などの心的現象。こちらは「主観」の作用です。
そしてその主観作用の中には「意志」も含まれます。
何かの目的を設定してそれを実現しようとする意識の作用と言えるでしょう。
つまり意志とは「分裂状態にある現状と理想とを統一しようとする意識作用」のことです。
今まで「主観と客観の統一」ということばかり述べてきましたが、純粋経験の統一には様々なパターンがあって、「現状と理想の統一」もその1つなんです。
現状は純粋経験の一部ですし、目的として設定された理想状態も純粋経験の一部です。それらを1つにすること(理想を現実にすること)は純粋経験の統一に他なりません。
そして西田によれば、このように「理想を実現すること」こそが「善」なのです。
理想を実現することが善だと言うと、「それだけで大丈夫かな?」と心配される方もいるかもしれません。
その理屈でいくと、「泥棒してカネを奪う」という理想を現実にしたら(実際に泥棒をしたら)それが「善」ということになってしまうのではないか……という心配です。
しかし西田としては、その人が「最も深い自己の内面的要求」に目覚めさえすれば、そのようなことは起きないと考えています。
こういう「泥棒したい」「他人に危害を加えたい」「欲望のままに生きたい」といった欲求は、人間が真に自己の本質に目覚めたならば消えていくものなのです。
なぜなら人間は神仏の一部であり、根底において神仏とつながっているからです。これについては前回記事で解説しました。
そういう人間が自己の本質(神性あるいは仏性)に目覚めたなら、悪しき欲求や意志など生じるはずもないというわけですね。
しかしこれを反対側から言うなら、善なる生き方をするためには、神仏の心を探究して、それを体現しようという努力が要るということになるでしょう。
善と幸福とは表裏一体
自己を掘り下げ、そこに神仏と同じ本質を発見する。そこから響いてくる心の声に従って自分を理想的なものへと成長させ、それと同時に客観世界も理想的なものとしていく。
これが西田哲学が説く「善」だと言えるでしょう。
ここで1つ、西田倫理学の重要ポイントがあります。
そのポイントとは、尊い理想を実現するという「善」の中にこそ、人間は「幸福」を感じるようになっているということです。
つまり西田にとっては「善」と「幸福」とは表裏一体なのです。
深い深い心の奥底から響いてくる声(神仏の意志)に従って理想を実現する。これこそが人間にとっての「善」であり「幸福」であるというわけです。
実は、この思想は古代ギリシャの哲学者アリストテレスによく似ています。
アリストテレスは人間が持っている優れた性質を「徳」(アレテー)と呼び、それを発揮して生きることこそが「善」(アガトン)であり「幸福」(エウダイモニア)でもあると説きました。
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この「自分の素晴らしい本質を発揮することが善であり幸福である」という図式がまったく同じであることがお分かりになると思います。
後期の西田哲学
ここまで西田哲学を解説してきましたが、それは大体『善の研究』に書かれている内容でした。
しかし『善の研究』は初期の作品であり、西田はその後も長く思索活動を続けています。
後期の西田哲学についても言及しなければ、思想の全体像を理解したことにはならないと思われるかもしれません。
実際、後期の西田は「純粋経験」という言葉をあまり使わなくなり、「自覚」や「場所」といった新たな概念を編み出したりもしています。その意味では確かに変化はあります。
しかしそれは、決して純粋経験論を「棄てた」ということではなく、むしろ純粋経験論を「発展させた」と表現する方が正確なのです。
例えば「自覚」というのは、「純粋経験はいかにして分裂し、また統一されるのか」というメカニズムに着目して純粋経験を言い直した言葉だと解釈できます。
また「場所」というのは、純粋経験が成立して発展していくその「場」というか「フィールド」に着目した概念です。
したがって西田哲学の「大きな枠組み」と言うか「基本的な構造」については、『善の研究』を執筆した頃から変化していないと考えていいでしょう。
これまでの僕の解説記事の内容についても、大きく変更すべきところはないと思います。
西田は求道者でしたから、自分が以前に述べた内容に満足せず、それをさらに深く突き詰めて細部を彫琢していったのですね。
純粋経験を霊的に解釈する
ここからは少し僕の個人的な考えと言うか、「純粋経験論はこのように解釈した方が有益なのではないか」と思うところを述べたいと思います。
純粋経験とは、主観と客観とが分離していない「主客未分」の統一状態のことでした。
この「主客未分」ということですが、僕は「死んで肉体がなくなった霊魂の状態」をイメージすると理解しやすいのではないかと思っているんです(笑)
他の記事でも言っている通り、僕は死後の世界の存在を認めているために、どうしてもそのような解釈をしたくなるのです。
例えばあなたが亡くなって、肉体は焼かれて滅びてしまい、いわゆる「幽霊」になっていると想像してみて下さい。
幽霊として存在しているので意識はあります。しかし手足も胴体もありません。頭すらありません。それでもあなたは周囲の世界を見て感じているのです。
それは「ただ『経験』が流れているだけ」という状態ではないでしょうか? もはや「自分」が対象としての「世界」を見ているという感覚ではなくなるでしょう。
この場合、あなたと世界はまさに一体です。
そこにリンゴがあるのだとすれば、あなたがリンゴを見ているのか、リンゴがあなたを見ているのか、リンゴがリンゴを見ているのか、区別できないかもしれません。
これこそまさに純粋経験であると言えないでしょうか。
もちろん西田は「わしは幽霊の話をしておる」などとは言っていません(^^;)
ですので、これは学問的には正統と言えない解釈であることは理解しています。
ただ霊界を信じている僕としては、西田は直感的に(潜在的に)霊界の仕組みを知っていて、それを難解な哲学として表現したのではないかと思ってしまうのです。
それに異端の解釈だとしても、「あえてそのように解釈した方がいいのではないか」と思う理由もあります。
その理由とは「純粋経験がこの現実世界に限られた話だとすると、『主客未分』と言っても単なる心理状態のことになってしまう」ということです。
この現実世界で私(主観)がリンゴ(客観)を見ているということなら、「私は私」「リンゴはリンゴ」です。まったくの別物です。主客未分もへったくれもないでしょう。
現実世界であくまで主客未分を主張するなら、せいぜい「主客がハッキリしないボンヤリした状態もある」という〈心理状態〉の話にしかならない気がします。
もう少しマシな話をしているのだとしても、ごく一部の芸術家や宗教家といった特別な人だけが到達できる高度な〈心理状態〉の話でしかないでしょう。
いずれにしても、これだと純粋経験は心理状態の1つということになってしまいます。
しかし西田は純粋経験は「世界の真なる実在」だと語っています。純粋経験論は心理学ではなく存在論なのです。
主客未分について「そんな気がする」という単なる心理状態ではなく、実際にそうした存在様式があるとシリアスに受け止めるなら、霊の世界こそがそれに相応しいと思えます。
西田が書いた文章(テキスト)を学者的に解釈することだけが解釈ではありません。もっと想像力豊かに読み解いた方が有益な場合もあると僕は考えています。
さて次回「西田幾多郎(5)西田の政治思想・国家論など」では、西田について残された論点についてまとめてみます。