今回から、日本が誇る哲学者・西田幾多郎(1870-1945)を取り上げます。
明治になって西洋思想が日本に輸入されましたが、最初はそれを吸収するのに忙しく、なかなか日本オリジナルのものを発信するまでには至りませんでした。
しかし開国から数十年も経つと、西洋哲学を咀嚼した上でそれを独自に発展させた日本オリジナルの思想が登場してきます。
その代表が西田幾多郎です。彼は日本人としてはじめて西洋の偉大な哲学者たちと肩を並べるレベルに到達した思想家と言えるでしょう。
さて、さっそく「西田哲学の内容をご紹介!」といきたいのはやまやまですが……
西田がどんなテーマと取り組み、どんなことを主張したのかを準備なしに理解するのはなかなか難しいかもしれません。
西田の哲学を理解するためにも、彼が学んだ西洋哲学が抱えていた(今も抱えている)問題について触れた方がよいと思います。
今回は、このあたりの話を導入としてご説明します。
主客二元論
西田が取り組んだ西洋哲学の大問題とは「主客二元論」と呼ばれるものです。
……と言われても意味不明だと思うので、なるべく簡単に説明してみたいと思います。
説明の中で「クオリア」とか「意識のハード・プロブレム」といった最近の哲学用語が出てきますが、内容的には伝統的な難問を現代風に言い換えたものなのでそのまま使います。
西田がこれらの言葉を使っているわけではありません。
では「主客二元論」の説明から。
あなたが机の上に置かれているリンゴを眺めているとします。
まずリンゴという対象がありますね。これを「客観」あるいは「客体」などと言います。
そして一方、このリンゴを見ているあなたの意識(心)があります。これが「主観」あるいは「主体」と呼ばれるものです。
主客二元論とはこのように「主観と客観を対置させる構図」のことです。主観が客観を知覚したり、客観について思考したりするというわけです。
※ちなみに客観はリンゴのような「物体」であるとは限りませんが、分かりやすくするため物体をイメージしながら話を進めたいと思います。
一見、当たり前のように思えますよね(^^;)これの何が問題なのでしょう?
実はこの「主観と客観を対置させる構図」を哲学的によく分析すると、いろいろと難しい問題を抱えているんです。
クオリア問題
上の例を使ってご説明します。
あなたは机の上のリンゴの「赤さ」を眼で見て感じています。このことを現代の脳神経科学・認知科学を使って説明すると、次のような物理的プロセスを踏んでいるそうです。
↓↓↓↓↓↓
リンゴの表面に当たって反射した光(波長610~750nm)があなたの眼球の奥にある網膜に到達する。※nmはナノメートル。
網膜には視細胞があり、ここで光の信号は電気信号に変換される。
この電気信号は視神経へ送られ、そこから視床を経て大脳皮質の視覚野に到達する。
脳で電気信号を処理することであなたの意識に「赤さ」が現れる。
↑↑↑↑↑↑
つまり「外部からの刺激(この場合は光の波長)が神経を経て脳に到達し、そこで処理されると知覚や認識が成立する」ということです。
このように脳神経科学・認知科学は(例えば)「700nmの波長を持つ光」が私たちに「赤色」を知覚させるのだと説明します。
しかし、です。
仮に「波長700nmの光」があなたの意識に現れる「赤さ」の知覚と対応しているのだとしても、「波長700nmの光」と「赤さ」とは同じではありません。
あなたの意識に現れている「赤さ」とは、あなたがまさに感じている感覚の質です。あの燃える炎のような色です。それは「700nmの波長を持つ光」とは別のものでしょう。
あなたがまさに感じているこの感覚の質のことを「クオリア」と呼びます。
網膜に到達した光は視神経で電気信号に変換され、イオンや化学物質のやり取りによって脳に伝えられますが、この電気信号ももちろん赤さのクオリアではありません。
ここに哲学的な難問があります。
ご説明した「光の持つ特定の波長が電気信号に変換されて大脳皮質で処理される」という一連の過程は完全に物理的なものです。
ではどうしてこの物理的過程に「赤さ」というクオリアが伴うのか?
これが謎なのです。
あなたが感じる「赤さ」は主観的なクオリアであり、意識(心)で起きる心的現象です。
物理現象に過ぎない光や電気信号の伝達から、いかにしてまったく別の範疇(カテゴリー)に属する心的現象が現れるのか……。現代哲学ではこれを「クオリア問題」と呼びます。
あまりピンと来ないでしょうか?
この問題の深刻さを実感するためには、「この赤さのクオリアは『どこに』あるのだろうか」と考えてみるとよいかもしれません。
脳の中にあるのでしょうか? しかし脳を切り開いて覗いても「リンゴの赤さ」は出てきません(笑)「赤さ」は確かに存在するのに、それは物理世界のどこにもないのです。
光の波長も「赤さ」のクオリアではない……。ではリンゴの表面にあるのか? しかしリンゴは物理的には素粒子の集合体に過ぎません。物理世界に色などないはずです。
意識(心)やそこに現れてくるクオリアはどこにあるのか? それは物理世界とどんな関係にあるのか? これは哲学的にはかなりの難問なんです。
意識のハード・プロブレム
これはリンゴなどの対象を「知覚」する場合だけの問題ではありません。
喜怒哀楽といった「感情」や、数学の問題を解いている時のような抽象的な「思考」なども含め、意識的な活動全般について言えます。
こういう心的現象(意識現象)にはそれに伴う脳内の物理現象が確認できるでしょう。それでも心的現象と物理現象は同じではありません。
例えば興奮状態においては脳内でドーパミンが分泌されていると言いますが、興奮はドーパミンではありません。興奮は興奮、ドーパミンはドーパミンです。
知覚だけではなく感情・思考・意志も、脳や神経を舞台にした物理現象とはまったく別物であると思われます。
ご紹介した「クオリア」という用語は知覚について用いられるのが一般的ですが、意識において生じる感情・思考・意志なども含めてよいと僕は思います。
伝統的な哲学では、意識(心)に現れるこのような諸現象を物理的な事物と区別して「表象」と言い表していました。
この「表象」も知覚などの「イメージ的なもの」を指すことが多いものの、人によってはそれ以外の心的現象についても用いました。その点も「クオリア」とよく似ています。
このような「物理現象(脳などで起きている現象)と心的現象(意識で起きている現象)はいかなる関係にあるのか」という問題を「意識のハード・プロブレム」と言います。
オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズが問題提起したものです。
クオリア問題は1つ1つの感覚質についての問題ですが、意識のハード・プロブレムはそれを意識や心の問題に一般化したものと理解すればよいと思います。
唯物論
このように心的現象(意識現象)と物理現象を明確に分けて、両者の関係を云々するような議論が好きではない人たちもいます。
いわゆる「唯物論」の人たちにはそういう傾向があります。
唯物論は「世界には物理的なものしか存在しない」という立場ですから、それと対峙するような存在として心的現象を認めるのを嫌がります。
意識や心といったものが、何だか物理的なもの(物体や物質)と同じかそれ以上のリアリティを持っているかのような議論は好きではないのです。
けれど僕たちは現にクオリア(表象)の中を生きているのですから、好むと好まざるとにかかわらず、何らかの意味で意識現象が存在することは認めざるを得ないでしょう。
だからほとんどの唯物論者は嫌々ながらも「物理現象から心的現象が生じる」と結論することになります。
物理現象の随伴現象というか「おまけ」のような扱いではありますが、とにかく心的現象の存在を認めているのです。
こういう不徹底が嫌なら、もう意識や心が存在することを否定するしかありません。
そういう人たちもいることはいて、彼らは「意識などない!」「心など存在しない!」などと禅僧みたいなことを言っているようです。
しかし意識やクオリア(表象)は現にあるのですから、禅問答をやっても始まりません。哲学的対話が成り立たない人たちはスルーするしかないでしょう。
ここまでの話を整理してみます。
主観と客観が対置されている構図を「主客二元論」と言います。
主観とは要するに「意識現象」「心的現象」のことであり、客観とは「物理的対象」「物理現象」のことです。
つまり主客二元論は「世界にはまったく性質の異なる2つの存在領域があること」を前提にしているわけです。
世界には「心」と「モノ」という2つの存在領域があるという考え方を「物心二元論」と言います。物心二元論は哲学者デカルトが強く主張したことで有名です。
主客二元論とは、「人間の認識」という場面における物心二元論のことだと思えば理解しやすいでしょう。
主観と客観、意識と対象、心的現象と物理現象……。どうしてこのような2つの領域が存在しているのか? 両者はどのように関係しているのか?
このような哲学的な疑問が湧いてくるのですが、唯物論ではこの疑問に答えることができません。
上でご紹介したような脳神経科学・認知科学がまさに唯物論的な説明の例で、それは「物理現象から心的現象が発生する」と説明しているわけですね。
しかしその方法では、すでに述べた「クオリア問題」「意識のハード・プロブレム」に阻まれて2領域の関係は断絶してしまうのです。
つまり「物理現象→心的現象」という順番で説明しようとすると挫折するのです。
純粋経験論へ
それなら「心的現象→物理現象」という順番ならどうか?
つまり「真なる実在は心的現象であり、物理現象はその一部である」と説明してはどうかというアイデアです。これを「唯心論」と呼びます。
ここでやっと西田幾多郎に戻ってきます(^^;)
西田の哲学は、心的現象から出発して物理現象の起源を説明する「唯心論」の系譜に属するものだと言えると思うのです。
西田研究の専門家はこれに反論するかもしれません。西田は「心的現象→物理現象」と「物理現象→心的現象」の両方を否定してその中間を行ったのだと。
この辺りは微妙なのですが、西田は「主観と客観が分かれる以前の経験」から出発すると述べています。これが有名な「純粋経験」です。
真に実在するのは純粋経験であり、その純粋経験から主観および客観が分離して現れてくるのだというのです。
確かにこの説明だけ聞くと「主観と客観のどちらにも偏らないところから出発する」という風に聞こえます。
しかしながら「経験」と言っている以上、それはやはり広い意味では意識現象(心的現象)です。
広い意味での意識現象から、狭い意味での意識現象(主観)と物理現象(客観)が出てくると言っているに過ぎません。
いずれにせよ、西田の純粋経験論は主客二元論(およびその根底にある物心二元論)を克服して、世界を統一的に把握するための哲学です。
僕の考えでは、西田哲学は「心的現象→物理現象」の順番で説明しようとする唯心論の一種です。
そしてこの方法によって「2つの領域の成り立ち」を唯物論よりも確かにうまく説明できていると思うのです。
背景を説明しないと純粋経験論の意義が分かりにくいと思いましたので、西洋哲学の根本問題である二元論について(長くなってしまいましたが)お話ししました。
次回「西田幾多郎(2)純粋経験とは何か」では、純粋経験論をもう少しだけ掘り下げてみたいと思います。
そしてこれが「意識のハード・プロブレム」を回避できる理由もお話ししたいと思います。