ニーチェ(2)戦慄すべき思想

哲学者ごとの解説

 

前回記事「ニーチェ(1)真理はない。善悪もない」では、ニーチェ哲学の大枠を解説しました。

ニーチェ(1)真理はない。善悪もない。
今回はニーチェ(Friedrich Nietzsche / 1844-1900)というドイツの哲学者を取り上げます。 今でも人気があって本もよく出ているので、ご存知の方も多いでしょう。 よく売られているのはニーチェの「名言」を集めたような本...

 

ニーチェによれば神は存在しません。そして神が存在しない以上、神が定めた真理も存在しません。神が定めた道徳や善悪も存在しないというのです。

今回はこのニーチェ哲学をどう評価すべきか、考えてみたいと思います。

 

ブーメランで自爆する哲学

 

まずは僕が考える哲学的な問題点を挙げてみたいと思います。

実はニーチェ哲学には、根本的な骨組みのところで矛盾があるように思えるのです。

彼は「〈真理〉は存在せず〈解釈〉があるのみだ」と言います。世界には「これが正しい」「これは間違っている」という決まりはなく、各人にそれぞれの考えがあるだけだというのです。

しかし……です。

それならば「ニーチェ哲学もまた〈真理〉ではなく〈解釈〉にすぎないこと」を彼自身が宣言していることになります。

要するに「真理なんてない!」と言う人がいたとしたら、「はぁ……。じゃあ、あなたの『真理なんてない』という意見も真理ではないのですね?」と言い返されて終わりです。

自分の主張がブーメランのように自分に跳ね返ってきて、自分の意見を破壊してしまっているわけです。僕はこれを勝手に「ブーメラン型自爆思想」と呼んでいます( ^^ ;)

 

ニーチェ以外にもこういう「自爆思想」はあります。

20世紀初頭に流行った「論理実証主義」という哲学もそうです。ちょっと簡略化して言いますが、要するに彼らは「科学で検証できない思想は無意味だ」と主張したのです。

でも彼らの「科学で検証できない思想は無意味だ」という思想も科学で検証できません(笑)ということは、彼ら自身の考えも無意味であるということになってしまうでしょう。

 

ニーチェも論理実証主義もそうですが、結局、自分の考えだけは棚に上げているから成立する思想なんです。「真理なんかない! オレの思想だけは別だけどね」ということです。

こういうタイプの思想をどのくらい真面目に受け取るべきか、哲学的には迷うところです。僕としては、このような「言いっぱなし」はそれだけで哲学としては「失格」の判定です。

 

この「言いっぱなし」ということに関連しますが、ニーチェは彼の考えを声高に主張するだけで、その主張の根拠を哲学的に論じているとは思えません。

彼の「無神論」もそうです。彼がやっているのは「なぜ愚者どもは〈神〉などという妄想を抱いてしまうのか?」という(今風に言えば)心理分析です。

しかしながら「人間が神を妄想してしまう心理学的な理由」をいくら探究したとしても、それは神の存在・非存在という客観問題とは論理的に関係がありません。

神が存在するかしないかは(心理学とは別の)それなりの根拠を挙げながら議論をする必要がありますが、ニーチェは心理分析をやっただけでそこをスルーしています。

この点では、ニーチェは彼に影響を与えたフォイエルバッハとまったく同じ過ちを犯しています。

 

「力がすべて」の危険思想

 

僕は「自分の思想を発表するなら、必ず1つひとつ根拠を挙げながら論理的に議論すべきである」などと言っているのではありません。

思想を表明する方法はいろいろあっていいと思っています。それほど片意地張らないエッセイのようなかたちでもいいし、詩でもいいし、芸術でもいいでしょう。

ただ「哲学」というなら、きちんとしたディベートになるような形式でやってほしいというだけです。そうしないと反対もしづらいですから。

だからニーチェにしても「哲学者」と言わなければいいわけで、広く「思想家」「詩人」と定義するなら、ああいうスタイルもまぁアリなのかな……とは思います。

という訳で、「ブーメラン型自爆思想」であることは大目に見ることにして、次にニーチェの思想内容そのものを検討してみます。

形式的な矛盾を無視して、とにかくニーチェの思想をまとめると次のような感じでしょう。

 

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この世界に「真理」というものはない。

ただし私(ニーチェ)の思想だけは真理だ。

神は存在しない。神が決めた「善悪」「価値」「意味」はない。世界は無意味・無価値である。

ただし私が主張する「力への意志」だけは価値がある。

したがって世界が無意味であることを受け入れ、既存の道徳など超越して、「力への意志」の欲するままに生きる者こそが「超人」である。

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要するに「力がすべて」「弱肉強食」「道徳無視」の思想です。

ニーチェの解説本を見ても、ここまでハッキリと断定しているものは少ないと思いますが、彼の思想を総括するならこうなる以外にありません。

 

ニーチェに関連する多くの本は、その思想を何とか世間に受け入れやすいかたちで紹介しようとして本質をごまかしているように僕には思えます。

ニーチェの名言を集めた本もありますが、こういうのを読むと「ちょっと気難しそうだけどホントは優しいオジサン」のような印象を持ちがちになるでしょう。

しかしニーチェはそんな次元の人ではありません。彼の哲学を論理的に分析するなら、完全に一線を超えた「危険思想家」と言わざるを得ません。

何しろ、人を殺そうが、女性に乱暴しようが、子どもを虐待しようが、他人のものを盗もうが、根本的には「悪」ではないことになるのですから。

 

ニーチェを肯定しながら良識派でいるという「偽善」

 

現代の日本では、ほとんどの知識人は「人間には人権があること」を前提に言論活動をしているでしょう。また「侵略や虐殺は悪であること」も前提しているでしょう。

また「窃盗は悪であること」「差別は悪であること」も前提して話をしているはずです。

そうした良識的な価値観の範囲内で言論活動をしていながら、その一方でニーチェ哲学を高く評価する人たちがいることが僕には理解できません。

ニーチェを肯定しているなら「人権などない!」「人殺しも大いに結構」「強い者が弱い者を虐殺して何が悪いのだ」と主張しなければスジが通らないでしょう。

もし心の底でそんなことを信じてはいないとするなら、彼らにとってニーチェ哲学は結局アクセサリー(飾り)なのだと思わざるを得ません。

ニヒリズムの哲学と言うと、「世間の価値観には染まらないぜ」「アウトローで生きるのさ」みたいな感じでちょっと格好いいですからね。

 

ここまでのことを簡単にまとめましょう。

その哲学は、自分の主張が跳ね返ってきて自分を破壊する「ブーメラン型自爆思想」です。

仮に自分だけを棚に上げてブーメランを交わしたとして……

その哲学は「力がすべて」「道徳無視」「弱肉強食」の悪魔的な内容です。

 

したがって僕としてはニーチェ哲学は捨て去って然るべき思想だと考えます。

いくら「言論の自由」があるといっても、例えば『人の殺し方』『自殺のすゝめ』などといった本は保護される対象にはなりません。

だとすれば、もっと根本的なレベルで道徳や倫理の存在を否定しているニーチェの本は余計にそうでしょう。普通に出版していいものではないと僕は思います。

ヒトラーの著書『我が闘争』はドイツではそのままのかたちでは出版できず、ヒトラーが書いた本文を否定するような注を大量につけまくってようやく許されているそうです。

ニーチェの著書も(もし完全に焚書坑儒して消し去るのがアレなら)『我が闘争』のように危険書であることを明確にし、大学や図書館に限定するなどの配慮が要るのではないでしょうか。

 

とにかく、ごまかしが一番よくありません。

ニーチェ哲学のような非道な思想を「カッコイイもの」「有益なもの」であるかのように装って広げるのは「偽善」に他なりません。

そしてこういう「偽善」は、ニーチェ自身が最も嫌うものであるはずなのです。