マルクス番外編(1)税金が高いのは社会主義

哲学者ごとの解説

 

前回および前々回の記事では、マルクスの共産主義がどうして全体主義に陥るのか、その理由をまとめました。

マルクス(3)共産主義がダメな理由-前編
前回「マルクス(2)資本主義、崩壊せず」では、マルクスの資本主義への批判がことごとく外れていたことを見ました。 資本主義はマルクスが予言したようには崩壊しなかったのです。 では、マルクスが主張した共産主義(社会主義)の革命を実現...

 

この「ズバリの共産主義はダメだ」という考えはすでに日本でも多くの人に共有されていると思います。

しかし、より広い「共産主義的な発想」あるいは「社会主義的な発想」というものは、個人の中にも社会の中にも抜きがたくずっと存在しています。

今回はその辺りについて考えてみます。

 

ちなみに僕としては次のように言葉を使い分けています。

社会主義 ⇒ 政府による計画や管理によって財産の平等を目指す考え方

共産主義 ⇒ 社会主義の一種だが、マルクスやその後継者たちの思想(=極端な社会主義)

 

今回のテーマはズバリのマルクス主義ではなく「発想」「考え方」なので、主に「社会主義」という言葉を使います。

 

高すぎる税制は「私有財産の否定」

 

さてこれまでの記事では、共産主義(社会主義)が全体主義になる理由をいくつか挙げました。

 

①私有財産の否定

②計画経済・統制経済

③一党独裁

④暴力の肯定

⑤唯物論・無神論

 

今の日本社会では、大っぴらに③「一党独裁」や④「暴力の肯定」を説く人はさすがに少ないので、これは問題にしなくてもいいでしょう。

⑤「唯物論・無神論」についても、そういう風潮が強いという面はあるものの、別に政府がそれを国民に強要するわけではないので、これも考えないことにします。

 

というわけで、主に問題となるのは①「私有財産の否定」および②「計画経済」のところです。

 

ん? 私有財産はありますけど?

 

こう思われるかもしれません。

確かに日本では私有財産が認められています。したがって厳格な共産主義とは違うでしょう。

 

しかしながら問題は「高い税金」です。高い税金は社会主義そのものなのです。

 

政府や党が民間からカネを多く吸い上げ、そのカネを「お上」の判断で再配分したりばら撒いたりするというのが社会主義の基本です。

つまり「税金が高ければ高いほど、その国は社会主義的である」と言えます。

そして税率が100%(私有財産ナシ)になると、完全な共産主義というわけです。

 

ここで言う「税金」には年金や健康保険といった社会保険料も含みます。これらだって強制的に徴収されるのですから、誰が何と言おうと「事実上の税金」でしょう。

日本の場合、税金と社会保障の負担を合計した国民負担率は42.5%、財政赤字を勘案した潜在的国民負担率は49.1%とのことです(2018年分・財務省発表)。

つまり、所得の半分近くを税金その他で強制的に奪われているわけです。ヨーロッパの国々も大体こんな感じです。

 

江戸時代の日本では、収穫の半分は年貢としてお上(藩や幕府)に取られ、半分が農民の手元に残ると言われていました(五公五民)。

そしてこれを超えると「農民の不満が爆発して一揆が起きても不思議ではない」という水準になります。

つまり、今の日本人は「これ以上になるなら一揆をおこしてもいい」というくらい「年貢」を取られているわけです(笑)

日本人の鬱憤がそこまで溜まっていないのは、おそらく源泉徴収で最初から税金を引かれた額を受け取っているからではないでしょうか。

自分の稼ぎについて「そもそもこんなもんだ……」と錯覚してしまうわけですね。

 

「福祉のための増税」は社会主義へのワナ

 

さてさて、政府や財務省の説明として「福祉を充実させるために増税が必要です」という話を聞くことがあります。「高齢化社会ですしね~」とか。

制度上の細かい議論はあるでしょうが、大枠においては「福祉を口実にした増税論」はまやかしだと考えるべきです。

 

彼らは「福祉を充実させるために」と言いますが、どうして政府が福祉を充実させる必要があるのでしょうか?

政府が国民の面倒を見なければいけなくなるのは、国民の生活に余裕がないからです。そして国民の生活に余裕がないのは政府が税金を取りすぎているからではないでしょうか。

そもそも自分の手元にカネが残ってさえいれば、国民は病気や老後に備えて貯金をしておくこともできます。投資や運用によって増やすこともできるでしょう。

わざわざカネをいったん政府に預けて、そのカネで政府のお世話になる必要はありません。それは政府に「生殺与奪の権」を与えること以外のなにものでもありません。

 

実際に、政府による社会福祉などまったくなかった昔であっても人々はちゃんと暮らしていたわけです。

年をとってから困らないように蓄えをしたり、親孝行な子どもを育てて面倒を見させたり、それもダメならご近所やコミュニティでお世話をしたり……。

きちんと各人・各家庭で自己防衛していたのです。

 

それがいつの間にか「自分なりの考えで自分のカネを使う」という自由を奪われ、「政府に預けて自分のために使っていただく」という制度になってしまっているのです。

それでもし政府が「自分のために」使ってくれなかったらどうするのでしょう? おかしな使い方をされたらどうするのでしょう?

実際、「消えた年金」問題ってありましたよね。

アノ件、その後どうなったんでしょう(笑)

あれは、国民が「自分に還ってくる」と思って預けていたカネが勝手に使い込まれて蒸発していたわけです。

 

政府は国民の財産を守るためにある

 

思想家・経済学者のハイエクは1976年時点で次のように喝破しています。慧眼です。

 

かつて社会主義とは「生産手段の国有化」と「中央集権的計画経済」を意味していたが、最近では「課税を通じた所得の再配分」そして「福祉国家制度」を意味するようになった。

 

ハイエクによれば、重税・福祉国家はソフトな社会主義なんです。ということは、それは非人道的な制度だということです。

自分で自分の世話をする自由を奪われ、エサを待つペットと同じ状態に置かれるのです。僕たちとしては、政府サマが正しくカネを使ってみんなを生かして下さるよう祈るだけですね。

 

そもそも国家の使命は「国民の生命・財産・自由を守る」ことです。

生命はもちろんですが財産もきちんと入っています。そして国がこれを守る気がないなら野蛮な自然状態と変わりません。国などあってもなくても同じです。

 

国を維持するなら税金は必要かもしれません。しかしその税金は(例えば警察や軍隊など)国民の生命や財産を守る活動をするためにこそ集めるもののはずでしょう。

財産を守るために集めているはずの税金が高くなりすぎて、反対に国民の財産権を侵害するなら完全に本末転倒です。

そういう国は、経済運営においてどこかに間違いがあるのです。

 

17世紀の思想家ジョン・ロックは「国家とは、人々の生命・財産を守るために契約によって設立したものである」という「社会契約説」を説きました。

ということは、国家がその約束を履行できなかったり、それどころか国民を抑圧するものに成り下がったならば「解体」してもよいということです。

社会契約説がオールマイティとは思いませんが、それでも大事なことを教えてくれています。人々の財産や自由に無関心な政府なら倒されても文句は言えないのです。

 

もしも本当に増税すべきだと言うなら、増税のやむなきに至った「失政」の責任をとって切腹するくらいの覚悟で言ってもらわないと困ります。

「増税しないといけなくなる」などというのは、本来ならこのくらいの「大失態」なのです。国家が存在する理由の1つ(国民の財産保護)ができないということなのですから。

日本では与党も野党もマスコミも簡単に「増税」を口にして恥じませんが、本当に自分たちが自由主義の歴史を理解しているのか、胸に手を当てて考えてみるべきです。

いろいろな理由をつけて増税をエスカレートさせていく社会主義的な国家は国家失格です。逆説的ですが、そういう国には税金を集める資格はありません。

 

さて、次回「マルクス番外編(2)自覚なき社会主義者」では、僕たちの社会に根を張る社会主義のもう1つの柱である「計画経済」について考えをまとめます。

マルクス番外編(2)自覚なき社会主義者
前回記事「マルクス番外編(1)税金が高いのは社会主義」では、現代に残る社会主義の残滓の1つとして「私有財産の軽視」があることを挙げました。 これが「高い税金」として現れているわけです。 今回は、社会主義のもう1つの特徴である「計...