前回「マルクス(2)資本主義、崩壊せず」では、マルクスの資本主義への批判がことごとく外れていたことを見ました。
資本主義はマルクスが予言したようには崩壊しなかったのです。
では、マルクスが主張した共産主義(社会主義)の革命を実現した国々はどうなったのか? 今回はその話をしたいと思います。
※以下では「共産主義」と「社会主義」は程度の差であるという前提で、本質的に区別せずに論じています。
大粛清・恐怖政治の出現
マルクスは「自由主義・資本主義が成熟した社会でこそ、その矛盾が爆発して革命が起きる」と論じていたのでした。
しかし……
最初に革命が起きたのは、西ヨーロッパに比べると自由主義も資本主義も遅れている農業国のロシアでした。
この段階ですでに「マルクス理論はおかしい」あるいは「農業国で革命をやろうとしている俺たちはおかしい」と思わないといけなかったはずです。
しかし、革命家たちは何だかんだと理屈をつけて涙ぐましい「つじつま合わせ」をし、現実に革命を実行してしまいました。
こうしてロシア帝国は倒され、共産主義を奉じるソヴィエト連邦(ソ連)が誕生したのです。
ところが、そこに現われたのは「この世の地獄」「ディストピア」でした。
粛清に次ぐ粛清、暴力による権力闘争、市民の虐殺、飢餓による大量死……。共産主義国家で現れたのは大粛清・大虐殺を伴う恐怖政治だったのです。
レーニンやスターリンなどの独裁者が有名ですが、彼らは密告制度・秘密警察を使い、多くの人間を裁判なしで処刑していきました。
粛清の規模が大きすぎて人数については諸説あるようですが、レーニンやスターリンは直接的な処刑だけで数十万人から数百万人を殺害したとされます。
彼らが「人災」として引き起こした飢餓を含めると、多く見積もれば千万人単位の犠牲者が出たとも言われています。
しかもこれはソ連国内だけの話です。ソ連が引き起こした戦争や侵略による他国の犠牲者は含まれていません。
それはたまたま恐ろしい指導者が登場したからではないか?
残念ながら、そうではありません。
決定的に重要なことは「共産主義(社会主義)の国家は多くの場合、全体主義になる」「ソ連だけが特別ではなかった」ということです。
全体主義とは「国家や社会のためなら個人の自由や人権を踏みにじって一顧だにしない体制」のことです。国民の生命・財産・自由をためらいなく奪っていく体制です。
中国、北朝鮮、カンボジアをはじめ、東欧諸国やアフリカの一部など、共産主義を採用した他の国々もやはり全体主義となり、恐怖政治が行われました。
そして共産主義国家は力の劣る隣国に対しては侵略的になります。かつてのソ連がそうでしたし、中国や北朝鮮が近隣諸国の脅威になっているのはご存じの通りです(2019年現在)。
ステファン・クルトワ編著『共産主義黒書』(1997年)によると、世界に広がった共産主義体制による犠牲者は8千万人から1億人にものぼるとされています。
もちろんそれぞれの国情や国民性の違いはありますし、「共産主義的な政策をどのくらい徹底して行うか」という違いもあるでしょう。
それによって「全体主義」が比較的ソフトに現れる場合もありますが、「頑張って共産主義を徹底すればするほどひどくなる」という傾向があるのは確かです。
共産主義には全体主義のメカニズムがもともと組み込まれていると考えざるを得ません。
言い換えるなら「共産主義は本質的に全体主義である」ということです。
共産主義が全体主義になる理由① 私有財産の否定
では、どうして共産主義が全体主義になるのでしょうか?
様々な学説や意見を参考にして、僕なりにまとめてみたいと思います。
まず共産主義では「私有財産」を認めません。これが第一の理由でしょう。
財産をすべて徴収するか、それが無理でも高い税金を課してなるべく民間にカネが残らないようにするのです。ひどい場合には「金持ちを殺してカネを巻き上げる」ということもやります。
人々としては財産が手元にないので不安ですが、共産党からは「心配するな。俺たちエリートが計画的・効率的に再配分していい暮らしをさせてやるから」と言われてしまいます。
しかし安心できるはずもありません。
要するに「私有財産を奪われると生殺与奪の権を握られる」ということです。極端に言えば、エサを待つ動物と同じ状態に置かれるわけです。
ご主人様(国あるいは共産党)の機嫌を損ねてエサが来なくなればペット(人民)は死にます。逆らうことはできません。要するに「自由の死」ですね。
自由を殺したければカンタンです。私有財産を奪えば完了なのです。
この状態では、国家や党がどんな圧政を行っても、逃亡することも抵抗することも困難になります。こうして恐怖政治への準備が整います。
共産主義が全体主義になる理由② 計画経済
確かにカネを巻き上げられたら自由はイマイチかもしれないが、それをエリートたちが上手に有効利用してくれたらいい暮らしはできるかもしれないじゃないか?
しかし計画経済は決してうまくいきません。
まさに共産主義(社会主義)の歴史がそのことを証明してしまったのです。
資本主義における自由市場であれば、商品やサービスの価格・量・分配は「見えざる手」(アダム・スミスの表現)によって自然と適正なものに落ち着きますよね。
そして結局はそれが市民生活にとってベストなものです。
しかし旧ソ連では、商品の種類や量を中央官僚が計算によって決定しようとしていました。それもこまごまとした日用品レベルに至るまで。
例えば「タマゴを▽▽個つくる」「それにはニワトリ●●羽が必要だろう」「そのためにはエサが……」という具合です。一生懸命に表を作ってカリカリ計算していたわけです。
こんなことがうまくいくはずもなく、旧ソ連では「これは多すぎるのに、あれは不足する」という事態があちこちで起きました。
例えば「靴がうなるほど余っているのにパンがない」とか「工場を建てたけど電力がない」といった笑えないエピソードがたくさん語り継がれています。
官僚の計画で経済を運営すると市民生活の実態から離れてゆき、ひどい場合には「飢餓」を生じさせます。
スターリン時代のソ連もそうですし、中国の毛沢東が推進した「大躍進政策」でも途方もない数の餓死者を出しています。
計画経済と権力集中
計画経済がうまくいかないことは分かったが、それと全体主義とがどう関係するのか?
計画経済によって市民生活がメチャクチャになると、当然ながら民衆の間から不満が出てきます。
そして普通なら、その怒りの矛先は国家や共産党に向かうはずです。だって彼らの計画のせいなのですから、当然そうなりますよね。
だからこそ、その不満を粛清や思想統制で潰そうとするわけです。
文句を言うヤツ、言いそうなヤツはとりあえず刑務所か収容所にぶち込む。そこが一杯なら面倒だから殺しておく。
そして「計画は順調だ」と喧伝するのです。例えばこのようにです。
担当者:コメの生産目標が達成できないだと?
農夫:ちょっと目標が高すぎて……その~。
担当者:できていないのは君のところだけだ。ということは君の責任だろう。
農夫:そんな、本当ですか?
担当者:他は我々の計画通りにうまくやっているぞ(ウソ)。君、やる気はあるのか?
農夫:はい…。
担当者:死ぬ気でやりたまえ(本当に殺しておこうか)。
本当は計画そのものに問題があるのですが、それを情報統制や思想統制によってたくみに責任転嫁するわけです。
さらに言えば、計画経済というのは「計画する側」に絶大な権力を与える制度です。
計画の度合いが一定のラインを超えると、計画する当局は人々の生活をコントロールできるようになってしまいます。
例えば「君のところには仕事をやらない」とか言えますよね。「仕事をあげるから賄賂をよろしく」ということも横行するでしょう。
計画経済が最終段階まで行くと「配給制」になりますが、「お前の家には食糧を配給しない」と言われたら家族はオシマイです。
ある評論家の著書に書いてあったことですが、日本でも配給制が残っていた終戦直後には、配給を担当するお役所の権力は凄まじかったようです。少し紹介します。
当時は、通産省の担当課長のハンコがないと日本の紙とパルプを動かせない時代でした。
そんなあるとき某大新聞が通産行政を批判してきたのです。
そしてこれに怒った通産省の担当課長は「この新聞への紙の配給増加をやめる」と決めてしまいました。これでは新聞を発行できません。
するとどうなったか。
社長以下、新聞のお偉いさんたちがゾロゾロとやって来て30歳になるかならないかの1課長に平身低頭して謝罪、さらに通産省の意を汲んだ記事まで書かされたというのです。
このように計画統制経済というのは、課長クラスの官僚に大新聞の社長を屈服させるほどの権力を与えてしまうものなのです。
資本主義社会ならば、カーネギーに嫌われようがロックフェラーに憎まれようが「へのかっぱ」でしょう。いい気分はしませんが、別に困りはしません。
しかし共産主義社会で、配給担当の下っぱ官僚に睨まれたら終わりです。
計画経済は極端な権力集中を招きます。計画経済というものが(私有財産の否定と並んで)全体主義への道となる理由がここにあります。
次回「マルクス(4)共産主義がダメな理由-後編」でも、共産主義が全体主義になる理由を引き続き論じていきます。