カントと言えば永遠平和、永遠平和と言えばカント……。
こんな感じで結びつくほど、カントが永遠平和思想を説いたことはよく知られています。
今回はカントの永遠平和思想を簡単に紹介します。
カントの永遠平和論イコール絶対平和主義か?
ここで「平和」というのは要するに「戦争の禁止」です。
カントは「永遠平和」(恒久的な戦争の禁止)というものについて、内なる理性が人間に命じてくる厳粛な道徳法則であると考えました。
●●の場合には(例えば攻撃された場合には)やむを得ないので戦争してもいい……。これは仮言命法のかたちですね。しかしこういうことを言っていたら、いつまでたっても平和は訪れません。
仮言命法については以下を参照。
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したがって誰が何と言おうと「いついかなる場合でも戦争は不法である」と断言せねばならないとカントは考えるのです。
例えばよく引用されるカントの見解に「常備軍は時とともに全廃されなければならない」というものがあります。これも人類が実現すべき道徳法則だと言います。
軍隊があれば戦争が起きてしまうので、戦争がダメなら当然ですが軍隊もダメということになるでしょう。
ここまでは、「何があろうとも戦争は絶対にしてはいけない」という、いわゆる「絶対平和主義」の議論に聞こえます。
よほど好戦的な人か侵略主義者でない限り、多くの人は「できる限り戦争は避けた方がいい」と思っていることでしょう。
しかし「絶対平和主義」というのはこれと違って「何があろうとも戦争は絶対にしてはいけない」という立場です。
つまり「侵略されようが虐殺されようが戦争はダメ」ということです。ここまで極端な絶対平和主義思想は歴史上ほとんどないと言っていいでしょう。
戦後日本の「憲法9条を守れ」という運動は「いかなる場合でも戦争を遂行する能力(=軍隊)すら認めない」というものなので、極めて特殊な例外です。
常備軍の廃止も含めたカントの永遠平和論は、こうした極端な絶対平和主義を擁護してくれる数少ない哲学なのでしょうか?
結論としては違います。
実は、カントはある意味において戦争を認めてもいるからです。
例えばカントは「戦争をしかけられた国家にはあらゆる種類の防衛手段が許される」と語っています。「あらゆる種類の防衛手段」というのですから、当然ながら「武力行使」も入るはずです。
これは要するに「防衛戦争」ですね。カントは防衛戦争は認めているわけです。
ありゃ??? 「いついかなる場合でも戦争はダメ」と言っていたのにさっきと話が違う。そう思われたかもしれません。この点についてはすぐ後で僕なりにご説明します。
「戦争は人類にとって不可欠である」 by カント
さて「防衛戦争なら仕方ない」というここまでの意見なら、現代の絶対平和主義者が「なーんだ、カントも不徹底だなぁ」と少しガッカリする程度かもしれません。
しかしカントはこれに止まらず、現代の平和主義者が聞いたら驚いて腰を抜かすようなことも言っています。
なんとカントは「戦争は人類の文化を高めるために不可欠である」「戦争はそのために用意された摂理である」とまで言っているのです!
文化を高めるということの中には、戦争状態において各国が兵器開発を競うことによる科学技術の進歩なども含まれるでしょう。
また、戦争を経験することによって「もう戦争はコリゴリ」「二度と戦争は起こすまい」という決意や厭戦思想が深まってきます。これも文化の向上です。
カントはこういう意味での文化の向上なくして戦争はなくならないと言います。そしてその文化の向上のためには戦争が不可欠なのです。
戦争 ⇒ 文化の向上 ⇒ 永遠平和(戦争放棄)
論理的に考えると、「最終的に戦争をなくすために、まずは戦争しなければならない」とでも言っているかのように聞こえます(ーー;)
カントのこのあたりの思考は錯綜していて、とても一筋縄ではいかないものであることがお分かりになるでしょう。
そもそも永遠平和(戦争の放棄)というのは、人間が人間である以上逃れられない道徳法則だったはずです。
その一方、戦争をなくすため人類には戦争が不可欠であるとも主張する。
ここをどう解釈すべきでしょうか? カントは思考分裂を起こしているのでしょうか?
おそらくカントの思考が矛盾しているのではなく、人間というものがそもそも矛盾した存在者である(とカントは考えた)ということだと思います。
人間は内なる理性から永遠平和(戦争放棄)を命じられる存在であると同時に、その永遠平和のために戦争せざるを得ない存在でもある。人間はそういう二重存在なのです。
理想主義と現実主義(リアリズム)の共存
戦争が人類にとって不可欠であること、防衛戦争は認められること、これらが事実だとしても「戦争は不法である」という道徳法則は永遠不変のままなのです。
人間とは、自分が決して守れないような道徳法則を宿命的に課せられている存在である。カントはこう考えていたと解釈する他ありません。
決して守れないことだからと言って、それが道徳でなくなるわけではないということですね。
人類にとって可能であろうが不可能であろうが、そんな事情には関係なく、理想は理想としてあり続けるのです。
できようができまいが、「戦争放棄という理想に向かって努力し続ける義務」が人間から消えることはありません。
僕の解釈ですが、カントという人はすごい理想主義者であると同時にすごい現実主義者(リアリスト)でもあって、それが1人の人間の中で共存しているのです。
普通リアリストだったら、人類の戦争の歴史を引き合いに出して「人間にはそもそも平和なんて実現できないのさ」と考えるでしょう(だからそれを道徳だとか義務だとか言っても仕方ない)。
しかしカントはそうした現実をよく知りながらも、「永遠平和」の旗を絶対に下ろさない理想主義者であり続けます。カントは断固として「戦争は不法である」と言い続けます。
一方、普通の理想主義者だったら、理想に走るあまり(戦後の日本のように)現実から遊離した議論をしてしまいがちです。
ところがカントは究極の理想主義者でありながら、きちんと現実的な分析をします。防衛や安全保障を重視するのは当然なのです。
政治学の世界ではカントは普通「理想主義」の系譜に位置づけられます。これと反対の現実主義(リアリズム)には、例えば権謀術数を説いたマキャベリ(1469-1527)なんて人がいますね。
マキャベリについては以下の記事を参照して下さい。
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まあ確かにカントはマキャベリとは全然違いますし、理想主義に入れた方がスッキリしていいのかなとは思います。
ただここまでの話でお分かりの通り、カントはかなり複雑な思想の持主でした。ただ単純に「理想主義者」と表現するだけだと大きな誤解を生んでしまうでしょう。
日本の絶対平和主義者たちがカントを引用して憲法9条擁護に使おうとするなら、それは間違っていると言わざるを得ません。
実際(ないことはないですが)絶対平和主義の論拠としてカントが引用されることはそれほど多くない印象です。よく読めば「防衛戦争を認めている」とか分かっちゃいますしね(^^;)
彼らにとってカントは「使えそうで使えない」思想家なのでしょう。
さて、現在の僕たちはこういうカントの思想から何を学べるのでしょうか。僕は次のようなことだと思っています。
僕たちは現実がどうであれ理想を目指さなくてはなりません。
1億年かかろうが、1兆年かかろうが、理想を実現する前に人類が滅んでしまおうが、そんなこととは関係なく、人間である以上は理想に向かって努力する義務がなくなることはありません。
その一方、どんなに高尚な理想を掲げていても、それによって冷徹な現実認識が曇らされてはなりません。
例えば空想的な理想を性急に実現しようとするあまり、自国の安全保障を脅かすような平和運動には大いに問題があります。
カントの政治思想は不思議な構造をしています。
冷徹で意地悪なまでの現実主義であるからこそ、その中でも決して輝きを失わない理想が価値あるものとなっています。
反対に、理想がこの上なく高く掲げられるからこそ、それでもなお追及される現実主義は強烈なリアリティを持つことになっています。
僕たちがカントから学ぶべきことは、平凡な表現で恐縮ですが「理想主義と現実主義を同時に追及する姿勢」ではないでしょうか?
理想主義と現実主義(リアリズム)とが矛盾しないこと、むしろお互いを強めることをカント哲学は教えてくれます。
僕たちは現実の困難を前にするからこそ理想を燃え立たせることができ、真剣に理想実現を目指すからこそ克服すべき現実と正面から向き合うことができると言えるのではないでしょうか。