カント(3)他人を救うウソもダメなの?

哲学者ごとの解説

前回「カント(2)内なる道徳の声を聴く」ではカント倫理学のキモの部分をご紹介しました。

カント(2)内なる道徳の声を聴く
前回「カント(1)『純粋理性批判』を10分解説」では、カントが人間の認識能力について研究したことをご紹介しました。主著『純粋理性批判』の結論としては「人間の認識能力は五感を超えた世界には通用しない」ということでした。特に人間の「理性」という...

 

今回はそのカント倫理学をどう評価するかという話をしたいと思います。

 

功利主義との対比

 

まず「哲学」「倫理学」といった専門分野でカント倫理学がどう分類されているかを見てみます。

 

カントは「モノへの欲求や感情や欲望に惑わされて行動してはならない。『自分の格律(道徳的信条)は普遍的に採用されても大丈夫なものか』ということだけを考えなさい」と説いたのでした。

 

道徳というものは具体的なモノとか感情に左右されてはならず、「自分の格律は普遍的な道徳法則たるにふさわしいか」ということだけが重要だというのです。つまり〈普遍性〉という「形式」が大事なのです。

このことからカントの倫理学を「形式主義」と呼ぶことがあります(具体的なモノとか感情・欲求のようなものは「形式」ではなく「内容」「実質」ということになります)。

 

ここからもう1つ大事なことが出てきます。

ただ「自分の格律に普遍性があるか」だけを意識するということは、言い換えれば「自分の行動の結果がどうなるのかは考えない」ということです。

行動の結果として「幸せになれる」「よいことが起きる」「世界や周囲がよくなる」ということは道徳において問題にならないというのです。

行動の「結果」ではなく(普遍性を意識するという意味での)「動機」だけが重要なのです。カント倫理学のこの側面に注目して「動機主義」と呼ぶこともあります。

 

さらにカントは道徳法則に従うことが人間の「義務」であると言い、この「義務」をやたらに強調するので、彼の説は「義務倫理学」とか「義務論」などと言われることもあります。

 

このように、「形式主義」「動機主義」などいくつかの特徴を持つカント倫理学ですが、いろいろな面でこれと正反対の倫理学があります。それが「功利主義」です。

この「功利主義」という倫理学は「ある行為が、その結果として幸福や快楽をもたらすならば、その行為は道徳的に正しい」と説きます。

功利主義は、行為の動機ではなく結果を重視するので「結果主義」と言えるでしょう。動機主義であるカント倫理学とは反対です。

そして功利主義は、行為の結果として幸福や快楽を増大させることが大事だと説きます。幸福や快楽に目をくれることなく、たとえそれが自分の不幸を招くことになろうとも道徳法則に従うことが義務だと説くカント倫理学とは対極的です。

 

このように、専門の研究者の間ではカント倫理学は「形式主義」「動機主義」「義務論」として特徴づけられることが多く、功利主義と対極をなすものと捉えられることが普通です。

 

「例外なしの普遍化」は無理がある

 

 

では次に、しばしば「カント倫理学の問題」として指摘される点をいくつか挙げてみましょう。

 

カントは「道徳法則は定言命法のかたちをとっている」と言います。

「もし●●なら▽▽せよ」というかたちを仮言命法と言いますが、この仮言命法ではなく、条件をつけずに端的に「▽▽せよ」と命じてくる定言命法こそが道徳法則にふさわしいかたちであるというのです。

よく「歴史に『もしも』はない」と言いますが、カントは「倫理や道徳に『もしも』はない」という立場です。

 

例えば、「嘘をつくな」というのは定言命法のかたちをしています。カントによればこれが道徳法則の典型的なものです。

これに対して「もしこういう状況ならば嘘をついていい」「優しい嘘もある」「嘘も方便だ」などと例外を認めていたらキリがありません。

これでは確かに道徳法則が法則ではなくなってしまいます。

 

しかし……です。

例外はダメと言いますが、例外をまったく認めないとしたら、やはりちょっと不都合なことになるでしょう。

例えば、殺人鬼が罪のないAさんを殺そうと探し回っているとします。あなたはそのAさんを家にかくまっています。

そのあなたの家に殺人鬼が訪ねてきて「ここにAはいるか?」と聞いたとしましょう。

そういう場合でも、あなたは「ここにAはいない」と嘘をついてはいけないのでしょうか? 正直に「ここにAがいる」と答えたらAさんは殺人鬼に殺されてしまうのに……です。

 

さすがのカント先生もこういう場合は例外を認めてくれるだろう……。こう思いたいところです。

しかし、なんとカントは「こういう場合でも嘘をついたらダメ」と言うのです! いちいち例外を認めていたら道徳法則が法則ではなくなって崩壊してしまうからです。

これは僕が想像で言っているのではなく、カント自身が「人間愛からの嘘」という論文(通称「嘘論文」)でハッキリとそう論じています。

でも「人が死ぬことになっても嘘をついてはいけない」なんて、いくら何でも極端すぎるでしょう。これでは「間接的な殺人」「殺人ほう助」です。

 

現実は「もしも」の連続です。あるいは「もしも」の重ね合わせです。「もしも」を排除するカントの倫理学は実際には役に立たないシロモノである疑いが強いのです。

 

こういう風に考えることもできます。

カント倫理学でもおそらく「人助けをせよ」という道徳法則は認められるでしょう。

上のようなシチュエーションになった場合、「嘘をつく or つかない」ということと「人助けをする or しない」ということのどちらの面がフォーカスされるべきなのでしょうか?

少し分かりにくいでしょうか。要するにこういうことです。

Aさんは家にはいないと言って殺人鬼を欺くという行為は、「嘘をつくこと」であると同時に「人助けをすること」でもあります。

この行為は「嘘をつくこと」であるから道徳的にマイナスなのか、それとも「人助けをすること」であるから道徳的にプラスなのか……。カント倫理学ではそれをどう判定してよいか分からないのです(「嘘論文」では後者の側面を考慮していません)。

 

一時期「ハーバード白熱教室」の講義などで政治哲学者のマイケル・サンデル博士が有名になりました。

彼の講義が面白かったのは、例えば「1人を殺せば5人が助かるような状況になった場合、その1人を殺すことは許されるか」等々の極端な想定をして議論を盛り上げたからです。

こういう議論が倫理学の中心的な課題であるのかについては一考の余地ありですが、それでもこうした難しい判断において倫理学がまったく役立たないとしたら、その倫理学の存在意義は薄いと言わざるを得ません。

カント倫理学は「一般論としては何が正しいのか」を見極めるには有効だとしても、現実的な難しい判断においては役に立たないことが多いでしょう。

 

例えば「殺人」ということについても、一般的に考えるならそれが悪であることは分かります。

しかし、強盗殺人犯が今まさにナイフを振り上げて自分の家族を殺そうとしている瞬間だったら、拳銃を抜いて殺人犯を撃ち殺すことが悪だとは思えません。

自分にだけ「殺人=悪」というルールを課して相手はそれに従わないなら、道徳や正義を守った側が滅んでしまいます。それを「道徳」あるいは「正義」と呼べるでしょうか?

やはりカント倫理学には明らかに「足らざる部分」があると考えるしかありません。

前述した功利主義なら「その場にいる自分や家族の命が守られる」「将来、その殺人犯に殺されるであろう他人の命も守られる」という理由で殺人犯の射殺を認めるでしょう。そうした方が全体として幸福な結果を生むからです。

 

道徳は感情を無視してよいのか?

 

さて、カント倫理学についてはまだ指摘すべきことがあります。

それは、カント倫理学が感情の役割を否定している点です。

 

カントによれば「よい行為を『したいから』する」というのは道徳的ではありません。それは感情による行為だからです。

この理屈だと、「友人に親切にすることが好きだからそうする」という性格のよい人は道徳的ではないことになります。

それよりも「友人に親切にするなんてクソ喰らえだが、それをルールにしないと社会が立ちゆかないから嫌々ながら仕方なくそうする」という、とても性格の悪い人が道徳的であることになってしまうでしょう(^^;)

有名な詩人シラーはこのあたりのことについて「私は喜んで友達に役立ちたい。だが残念ながら好んでそうするのだ。それで(カントから)有徳ではないと言われるのならシャクだ」と強烈に皮肉っています。

 

カントに言わせれば、道徳というものは普遍的に通用するものでなければなりません。法則的なものでないといけないのです。

そして感情は1人ひとり違うものであって千差万別ですから道徳の原理にはなりません。道徳的に善か悪かは、感情ではなく万人に共通する「理性」が判断すべきであるということです。

 

しかしことはそれほど単純でしょうか? 次の例で考えてみましょう。

 

小さな子どもが道路で遊んでいて、迫ってくる車に轢かれそうになっているとします。

その瞬間、あなたは「危ない! 助けなければ!」と思うのではないでしょうか。

さて、こみ上げたその思いは理性によるものでしょうか? それとも感情によるものなのでしょうか?

 

けっこう難しいでしょう。僕は「どちらとも判定しがたい」と思います。

感情と理性とをどんな場合でも峻別できるとは思えません。「明らかに理性的な判断」や「明らかに感情的な判断」はありますが、どちらとも言えないグレーゾーンも多いはずです。

例で挙げた「子どもを助けたい」という気持ちはかなり多くの人が持つでしょう。もしこれが感情に属する心の動きだとすれば、かなり普遍的な感情というものがあることになります。

そして普遍的なものであるなら、これを道徳と関係するものと考えてもおかしくはありません。

実際、カントと同時代のスコットランドの哲学者たちは「普遍的な感情」というものを想定し、それを軸にして道徳を語りました(経済学者として有名なアダム・スミスもそうです)。

カントが「理性によって感情を抑える」と考えたことは、実際には「普遍的感情によって個人的感情を抑える」ということかもしれないわけです。

 

道徳は普遍的なものであるべきだ

↓↓↓↓↓↓

感情は普遍的なものではない

↓↓↓↓↓↓

道徳と感情は切り離すべきだ

 

こういう三段論法は成り立たないかもしれないということですね。

 

もちろん、一般的には「理性で感情を抑制しなければならない」という場面は多いでしょう。その意味では、カント倫理学も人間の生き方の重要部分を押さえていると言えるかもしれません。

特に「個人的な感情や幸福よりも大義のために命を捧げる」というような崇高な生き方はカント倫理学と相性がよいと言えます。

しかしここで「大義」と呼んだものは、結局のところ「より多くの人々の幸福」かもしれません。それにすでに述べたように「理性」と「普遍的感情」との区別は曖昧です。

そういうことを考え合わせるならば、人間的な感情を軽視することなくカント倫理学を再構築し、その崇高な部分を活かす方法はあるのではないでしょうか。

 

次回「カント(4)永遠平和のために」では、カント哲学の代名詞になっているくらい有名な論文『永遠平和のために』について解説します。

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