これから何回かに分けて、「科学とは何か」という問題について考えをまとめてみたいと思います。
というのも、この問題については僕もいろいろと思うところがあるからです。
科学の条件?
僕はいわゆる「死後の世界」や「霊魂」を信じていて、なぜそう思うのかをKindle本にまとめて出版までしています。
また、他にもUFOや宇宙人の存在も信じています。
「この広い宇宙のどこかには知的生命体くらいいるだろう……」という“大人風”の信じ方ではなく、「宇宙人がUFOに乗り込んで地球に来訪している」という信じ方です。
僕はこれらのことについて「科学的に証明済み」とまで考えているのですが、一般の科学者の皆さんはそうは考えて下さらないようです。
彼らはよく「科学的に……」「証拠が……」云々ということを持ち出して、上のような内容についてはなかなか認めてくれません。
彼らは「霊やUFOの話は科学のふりをした〈疑似科学〉である」とよく言います。
つまり「もっともらしい根拠を並べているように見えても、実は〈科学〉の条件を満たしていないのだ」と仰るのです。
じゃあ、あんたたちの言う〈科学〉の条件って何じゃい!!
……と憤った僕は「科学哲学」関連の本をかなり読み漁りました(笑)
そういうわけで、現代の科学哲学で〈科学〉の条件として語られることが多いものを1つ1つ点検していきたいと思います。
もちろん、論じる人によって多少の違いはありますので、なるべく大体のコンセンサスがあるあたり、最大公約数的なものを抽出できればいいかなと考えています。
観察できるかどうか
1つの考え方として、「人間が観察できる対象を扱うのが科学だ」という意見があるように思います。
この考えによれば、「幽霊なんて観察できない」「そんなものは存在するとは言えない」「非科学的だ」ということになるわけです。
僕は「幽霊だってたくさん観察(目撃)されているじゃないか!」と言いたくなりますが、おそらく「万人が観察できる」という条件なのでしょう。
確かに幽霊は万人に観察できるわけではありません。
この「万人が観察できること」ということ、確かに〈科学〉の条件として検討する価値はありそうです。
しかしながら、もしこの「万人が観察できる対象」というものを「人間の目で見える対象」あるいは「人間が五感で知覚できる対象」と狭く限定するなら、直ちに不都合が生じます。
ミクロの素粒子、例えば電子や光子などはどうやっても五感では知覚できません。それでも立派に科学の対象になっています。
当たり前ですが「五感で知覚できないから信じない」というのは不合理な態度です。唯物論者でも実際は五感で知覚できない多くのものを信じているはずです。
唯物論者たちでも「五感で知覚できる・できない」を科学的探究の条件にしているわけではないとすると、「万人が観察できる」というのはどういう意味なのか? おそらく次のようなことです。
彼らが「万人が観察できる対象」という場合、そこには「数多くの実験や観察から間接的に(理論的に)存在が認められるもの」も含まれているのです。
例えば、電子というものの存在を前提してこそ、いろいろな元素の特徴を説明でき、電気現象やミクロの世界の現象を説明できます。
目視することはできないにせよ、実験や観察に基づく理論的考察から電子の存在が確実視されると考えてよいわけです。
もちろん、みんながみんな実験や観察をしたり、そこから理論的に電子の存在を導けるわけではありません。
でも、もし仮に大学等で物理学を学んで、先生の元で科学的トレーニングを積んで、さらに理論的な考察をすれば、おそらくみんな電子の存在を納得できるでしょう。
ここで「万人が」と言っているのはそういうことです。
※実は電子が直接は観察できないことを理由にその存在を疑う人々もたまにいて、科学哲学的には議論が続いているようです。この電子の非実在論は「直接に知覚可能なものしか信用できない」という考えを突き詰めた立場と言えるでしょう。
この考え方をまとめると、「人間が直接に知覚できるもの」および「実験や観察から導かれ、理論的に存在が確かなもの」が「万人が観察できるもの」として科学の対象であるということになるでしょう。
そして、これに当てはまらないものを研究しているのは「非科学」「疑似科学」であると言いたいわけです。
さて、ではこの基準で「科学」と「非科学」を区別できるのでしょうか?
結論を言えば、やはり問題があります。
このように理論的(間接的)な意味で観察可能な対象まで含めると、物理学者が「何を存在すると見なすか」は、歴史的にどんどん変動しているのです。
かつて理論的に存在するとされた「フロギストン」や「エーテル」といった物質は、その後の研究で否定されるようになりました。
それとは反対に、昔はまったく知られていなかった「ダークマター」や「ダークエネルギー」の存在が近年は認められるようになっています。
こうしたものが知られていなかった時代においては、これらは「非科学的」だったのでしょうか? その考え方はやはり問題があるように思えます。
こう言うと、「ダークマターやダークエネルギーも昔は『非科学的』だったのだ」という反論が出るかもしれません。
つまり「自分たちが『非科学的』という言葉を使ったからといって『存在しない』と断言しているわけではない。その時代の科学の水準で捉えられない謎が多いものを『非科学的』と言っているだけであって表現の問題だ」というわけです。
なるほど、そう仰るのであれば確かに「表現の問題」と言えるのかもしれません。
しかしそれならば「非科学的」という表現に「くだらない」「一蹴すべき」「まともに取り合うべきではない」というニュアンスを込めてはいけないと思います。
そういうものを研究しようとすると白眼視されたり不利な扱いを受けたりといったことがないようにしなければなりません。
「非科学」「疑似科学」という表現をよく使う人で、「それは単なる表現の問題で差別しているわけではない」と言う人がもしいたとしても、それは言い訳でしょう。
多くの場合、彼らが否定してしまいたい分野について「非科学的」「疑似科学的」というレッテルを貼っているだけのはずです。
もしどうしても、十分に理論的に確立された分野とそうでない分野を区別したいならば、後者には例えば「未知科学」などニュートラルな表現を使うべきではないでしょうか。「非科学」という差別的ニュアンスのある言葉は避けるべきでしょう。
当然ながら、大学の研究室で大っぴらにバンバン研究してもいいわけです。
少し脱線してしまいましたが、まとめます。
もし「非科学」という言葉に「研究に値しない」「否定すべき」という含意があるという前提で言うと……
この「実験や観察に基づいて理論的に存在が確実視できるか」という条件は、「科学」と「非科学」を区別する基準にはなりません。
繰り返しになりますが、「理論的に存在が確実視できるもの」は科学の歴史においてどんどん変動するからです。
結局、「その時点において理論的に不確かなものでも単純に否定してはいけない」ということですね。
こう言うと、ごくごく当然なことの気がします(笑)
さて、未知の現象を否定しようとする人たちが提示してくる〈科学〉の条件はまだまだたくさんあります。
「科学の条件とは(2)再現性について」では、その中でもよく出てくる「再現性」というものについて考えます。