難解な文章を参入障壁にして身を守る学者
学者さんの書いた文章って難しいですよね。
新聞の政治欄や国際欄に有名な政治学者の意見が載ることがありますが、全部ではないにせよ、一読して趣旨が「???」ということがよくあります。
一般の人に読ませることを意識している新聞ならまだマシですが、専門の学術論文になるとさらに難解で読みにくいものになります。
私もよく学術論文を書いていた身なので、このあたりの「事情」というか「理由」はよく分かるつもりです。
理系については詳しくないので今回は文系に限った話ですが、一部の文系の学者にとっては、できるだけ難しくて分かりにくい文章を書くことがステータスになっているように思えるのです。
世間では、一流の料理人、一流のスポーツ選手など、一般人にはない特殊技能を持っている人は尊敬されます。
文系の学者にとっては、この特殊技能に当たるものが「文章を難しく分かりにくく書く技術」なのです。
文系の世界では理系と違って「何かスゴい発見をした!」「すごくクリエイティブな内容だ!」ということが少ないため、自分と一般人との違いを示す特殊技能として普通は読めない文章を理解でき、自分も書けることが大事なわけです。
このことは、お坊さんの読経を考えるとよく分かります。彼らは、難しい漢文のお経を独特のやり方で朗誦しています。すると、何かありがたいものであるような気になりますよね。
意味が分からないのが難点だけど(笑)
インドの言葉で書かれたお経を平易な現代語に翻訳してみると、実はとても分かりやすい内容だったりすることもあります。
でも簡単な内容だと、普通の人でも理解できてしまうため、お坊さんの「存在意義」が薄くなってしまうわけですね。
故人の霊に対する供養として法を説いているというなら、分かりやすくしないと救えないんじゃないかと思うのですが。
文系学者の場合もこれと同じで、言っていることが簡単すぎると「そんなことなら私でも言える」という人がたくさん出てきて、尊敬されなくなる恐れがありますし、メンツが保てません。
また、もっといいことを簡単に分かりやすく言ってくれる人が出てくると自分たちは必要なくなって淘汰されてしまうかもしれません。
そこで、「難解な学術論文が書けるライティングスキル」を参入障壁として自分たちの「業界」を守っているというわけです。
このあたりが、難しくて分かりにくい文章を書く「動機」でしょう。
分かりにくい文章の書き方
では、難しくて分かりにくい文章を書く「方法」はどんなものか?
当然、「専門用語の羅列」というのが1つあります。
しかし、これはある程度までなら仕方ない面もあります。
必要以上にやるのは単なる「見せびらかし」でいただけませんが、専門用語をいちいち日常語に翻訳していたら、それこそ無駄に冗長でしまりのない文章になってしまうこともあります。
分からない単語が出てきたら、申し訳ないけれども読者自身に調べる労を取ってもらう方が効率的な場合もあるでしょう。
それよりも、学者の文章を難しくて分かりにくいものにする真の原因は「もちろん(確かに)……だが」型の文章の多用でしょう。
例えば「消費税を増税すべきだ」という主張をする論文だとすると、増税に反対する人からの反論にあらかじめ備えておくために「もちろん(確かに)増税すると景気が悪化する恐れはあるが……」という風に「但し書き」的な文章を入れておくのです。
しかも、その但し書き文章が長すぎて論文の大きな流れを分断していることもよくあります。
これは
1. 「反対の意見もちゃんと知っているよ」という博識アピールをする
2. あらかじめ反論への予防線を張る
という一石二鳥のやり方です。
もちろん論じている内容自体が複雑である場合もあるし、論理展開上、但し書きがどうしても必要な場合も多いのですが……
(↑↑↑まさにコレです。僕も使ってしまいます……笑)
どう見ても、単なる博識アピール、反論を避ける自己保身でしかないものも多く、そういうものはゲンナリしてしまいます。
そして、但し書きの文章の中にまた但し書きが入ったりして複雑になり、全体として何を主張している文章なのか、さっぱり分からなくなります。
上の消費税の例なら、その人が「消費税を上げろ」と言っているのか、「上げるな」と言っているのか、よく分からない文章になるのです。
読者が自分でメモを取ったり、欄外に要約を書いたりしながら、時間をかけて丹念に論旨を追ってようやく理解できる(こともある)……
こんな文章、読まされる方は大迷惑ですね。
そしてそういう文章を書いていれば、もし万一、内容の間違いが明らかになったような時でも、「私は反対のことにもきちんと注意喚起しておいた」「こういう場合には当てはまらないとあらかじめ言っておいた」などと責任逃れすることもできます。
ハッキリ言ってしまうと、ちょっと「潔くない」態度ですね。
もし本当に自分の言うことが有益で必要なものなら、はっきりと分かりやすい言葉でしっかりと世間に訴えるべきでしょう。
もちろん、先ほど言ったように、内容自体が複雑で難しいということもあるでしょうし、正確さを期すためにやむを得ないということだってあるでしょう。
(↑↑↑また使ってしまった……)
そこで提案です。
あえて必要以上に文章を難しく書かないこと
内容からしてもっと簡単な表現がないか推敲しまくること
「必要以上に」「内容からして」と言っているので、内容上やむを得ず難しくなる部分については認めています。
理系でなくても、読む側に一定の勉強が求められる分野もあるでしょう。
ただ、上のことを意識すれば、単に自己満足的で自己保身的な文章は大幅に減らせるのではないでしょうか。
わざと難しく分かりにくい文章を書くというのは、読者に対して不誠実であるばかりか、世間を啓蒙するという学者の義務に違反することでもあります。
分からない文章と格闘するのは、精神的にも身体的にも疲弊します。
本当に「時間」と「脳の糖分」の無駄なので、やめるべきでしょう。
〈2022.07.29 追記〉
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現在、政治哲学者ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読んでいます。
久しぶりにドイツ系哲学者の書物にがっつり取り組んでいるわけですが、彼女の文章もかなりの悪文で辟易しています(^ ^ ;)
カント・ヘーゲル以来のドイツ哲学の伝統ですね、これは。
内容はとてもいいのです。全体主義に対する洞察に満ちていて、とても勉強になります。
しかし内容がいいだけに、こういう難解で気取った文章が読者を敬遠させて、肝心の中身が世間に浸透することを妨げているのではないかと残念です。
また無駄に長いので、大事な人生の時間を奪われている気分にもなってしまうのです。
僕が同じことを書くなら、おそらく10分の1くらいに圧縮できるでしょう。
簡単に簡潔に書いてくれれば、もっとスムーズにアーレントの思想が拡がるのにな……と考えてしまった次第です。
以前に書いたこの記事を想い出したので、追記してみました。