歴史上、最大の哲学者は誰か?
こう質問された時、多くの人が真っ先に挙げるのがプラトンではないでしょうか? それほど、哲学史上におけるプラトンの影響力は突出しています。
20世紀前半に活躍したイギリスの哲学者ホワイトヘッドが「西洋哲学の歴史はプラトンへの膨大な注釈にすぎない」という有名な言葉を遺しているほどです。
それだからこそ教養人を目指そうとする人にとって(特に欧米の教養人の相手をするならなおさら)「プラトンについてまったく知りません」というのは非常にマズいわけです。
キリスト教についてまったく知りませんというのと同じくらいのヤバさでしょう。
そこで……
プラトンについてなら「これくらい知っていれば、まぁいいかな」という最低限の知識を数回に分けてまとめておきたいと思います。
ソクラテスの弟子
まずは基本情報から。
プラトンはアテナイで活躍した古代ギリシャの哲学者(紀元前427年ー紀元前347年)です。
若い頃はレスリングの選手として大会に出場していたと言われています。
体格がよかったらしく、「プラトン」というのは「広いやつ」という意味のあだ名だという説もあります。「広い」というのは、肩幅というか横幅のことでしょう。
レスラーとしての「リングネーム」だったという説もあります(笑)
一時は政治家を目指したこともあったプラトンですが、やがて哲学の道に進みます。
さて……
プラトンは哲学者ソクラテスの弟子です。
ソクラテスもプラトンと同じくらい有名ですね。ソクラテスの弟子だったプラトンには、これまた有名なアリストテレスという弟子がいます。
ソクラテス → プラトン → アリストテレス
哲学史どころか、世界史でも習うビッグネーム3人が、師と弟子というかたちで同時代に続けて登場しているという事実には驚かされます。
ちなみに、アリストテレスはかの有名なアレクサンドロス大王の先生ですから、プラトンはアレクサンドロス大王の先生の先生ということになりますね。
実は、プラトンは自分の考えを直接に「こうだ!」と述べるのではなく、師ソクラテスを主人公とする「対話篇」を書くことで表現しています。
つまりソクラテスと他の人との対話という設定で様々な議論を描き、そこに自分の思想を組み入れているわけです。
したがって、昔から研究者を悩ませてきた問題として、プラトンが書いたもののうち「どこまでが師ソクラテスの考えで、どこからがプラトン自身の考えなのか?」というものがあります。
プラトン以外の弟子たちもソクラテスについていろいろと書いているのですが、こちらにも同じ問題があります。
このことを専門的には「ソクラテス問題」と呼ぶようです。「どこまでがソクラテスの思想?」ということですね。これはきっと永遠に解決不可能な問題でしょう。
それでもプラトンが若い頃に書いた「初期対話篇」と呼ばれるいくつかの作品は「ソクラテスの生前の教えをある程度は正確に伝えているだろう」という大体のコンセンサスはあるようです。
以下、プラトンの主要作品を時期別に並べてみます。
【初期対話篇】
『ソクラテスの弁明』『クリトン』『プロタゴラス』『ゴルギアス』など……
【中期対話篇】
『メノン』『国家』『パイドン』『パイドロス』『饗宴』など……
【後期対話篇】
『パルメニデス』『ティマイオス』『テアイテトス』『ピレボス』『法律』など……
初期の『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスが「青年を惑わす罪」「国家の認める神々を認めない罪」で裁判にかけられた際、アテナイ市民に向かって演説した内容がベースになっています。
また『クリトン』は、脱獄するよう勧められたソクラテスがそれを断り、自らの信念に忠実に死んでいく覚悟を語ったものです。
初期対話篇では、多少の脚色はあるにせよソクラテスが実際に語ったことや行ったことをベースにしているとされています。
それに対して中期以降の対話篇は、引き続きソクラテスが主人公であることがほとんどですが(例外もある)プラトン独自の思想が色濃くなっていきます。
アトランティス伝説との関わり
思想家の伝記というのは派手な出来事も少なく、あまり面白くないことが多いものですが、ソクラテスやプラトンはなかなかスリリングな人生を歩んでいます。
師ソクラテスについては改めて書くとして、ここではプラトン本人の後半生を少しだけ紹介しておきます。
師ソクラテスが亡くなった後、プラトンは何度か軍役につき、その勇敢さを讃えられたりしています(まあ、元レスラーですからね)。
そしてその合間に、フェニキア(現在のシリアかレバノンの辺り)、キュレネー(現リビア)、イタリア、エジプトなどを訪れて、各地の思想を吸収しているようです。
イタリアで接触したピタゴラス学派(およびオルフェウス教)やエジプトの神秘思想では、魂の不死と転生輪廻が信じられていました。
プラトンもすでにソクラテスからそれを教えられていたでしょうが、この旅行の中でその思想をさらに深めたに違いありません。
ちなみに有名な「アトランティス伝説」ってありますよね。「かつて大西洋に存在したアトランティスという大陸が海中に没した」というアレです。
実は現在遺っているあらゆる書物の中で最初にアトランティスに言及されているのがプラトンの『クリティアス』という対話篇です。
エジプトの神官に伝わっていた伝説が、神官→ギリシャの賢人ソロン→クリティアスの祖父という経路で伝わり、それをクリティアスが友人のソクラテスたちに語るという設定になっています。
プラトン自身がエジプトを訪れていると考えられているので、おそらくプラトンはこのアトランティス伝説をエジプトで仕入れたのではないかと思います。
シチリア訪問のドタバタ
プラトンの後半生にとってさらに重要なのは、シチリア島を三度訪問していることです。イタリア半島のブーツのつま先の部分にある大きな島ですね。
プラトンはこの島のシュラクサイという都市国家に招かれているのです。
1回目はプラトンが40歳の頃、シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世の招聘に応えてのものでした(僭主というのは、王の血筋に依らずに実力で君主の地位を簒奪した者という意味)。
でも「王は哲学者であるべし!」みたいな思想を説いているプラトンなので、まあ僭主とはうまくいかなかったのでしょう。仲違いをしてギリシャに帰ってしまいます。
その際、ディオニュシオス1世に奴隷として売り飛ばされたものの、仲間たちによって解放され、事なきを得たと言われています。
アテナイに帰還したプラトンは「アカデメイア学園」を創設して弟子たちの教育に当たります。
世界最古の大学とも言われるアカデメイア学園は、古代ギリシャ・ローマ時代の学問の中心地となり、紀元後6世紀に廃止されるまで約900年間(!)も存続しました。
さて、1回目のシチリア訪問から約20年が経って、プラトンが60歳くらいの時、ディオンという政治家に請われて2度目のシチリア行きを敢行します。
この時は代替わりしてディオニュシオス2世が支配していました。
このディオンは20年前の訪問時からプラトンに心酔するようになっており、今回改めて、シュラクサイの政治顧問あるいは僭主の指導係という役割を期待して招聘したのだと思われます。
ところが、肝心のディオンが(親戚でもあったのに)ディオニュシオス2世に疎まれて追放されてしまいました。ディオンはプラトンと入れ替わりでアテナイのアカデメイア学園に入学。
プラトンも「もはやここに用はない」とばかりに、僭主の引き留めを振り切ってアテナイに帰ってしまいます。
しかし、すでに名声の高かったプラトンを傍において箔をつけたいと考えたのか、今度はディオニュシオス2世自身が強硬に3度目のシチリア訪問を要請してきました。
僭主が「プラトンが来ないなら、ディオンは二度とシュラクサイに帰還させん!」などと脅してきたため、プラトンはしぶしぶ3度目のシチリア訪問をします。
しかしその訪問の際には「プラトンの政治論を実行されると自分たちはクビになるに違いない」と考えた傭兵部隊に命を狙われるなど散々な目に遭います。
しかしながら、友人の助けもあって何とかプラトンは窮地を脱し、命からがらアテナイ帰還を果たしました。
少しだけディオンの後日談を。彼は故郷に残した妻がディオニュシオス2世によって勝手に他の男と結婚させられたことを知って激怒。この僭主を武力で打倒することを決意します。
ディオンはギリシャから軍を組織してシチリア島に遠征。この遠征軍には、なんとアカデメイア学園の学友たちもかなり加わっています。遠征には反対だったプラトンの心中やいかに……。
ディオン遠征軍と僭主軍が戦うことになったわけですが、ディオンの陣営も仲間割れを起こして、シチリアは三つ巴・四つ巴の内戦状態に陥ります。結局、ディオンは暗殺されるという最期を迎えてしまいました。
シチリアはギリシャのコリントスという都市の保護下に置かれ、支配者の地位を失ったディオニュシオス2世はコリントスに送還されて落ちぶれた晩年を過ごしたと伝えられます。
プラトンは内戦の間も各派に書簡を書いたりして、戦闘終結やその後の体制のあり方についてアドバイスを与えています。
このように、後半生はシチリア問題でかなり翻弄された感のあるプラトンですが、その間にも多くの対話篇を著し、それらの多くが西洋思想に大きなインパクトを与えたことを考えると、すごい精神力の持ち主だったのでしょう。
プラトン自身の伝記はこのくらいにして、「プラトンの哲学(2)ソクラテスの教え」では、プラトン初期対話篇に記されたソクラテスの思想を紹介します。
